第2回:運は存在するか?【調べもの禁止記事】

今回は私ぎゃんたがエッセイストです。一切調べることなく、「運は存在するか?」をテーマにエッセイを書いていきます。

 

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tony-gyanta.hatenablog.com

 

 

先週末、東京競馬場に競馬のG3レースであるエプソムカップを見に行った。

二着までに入ると予想して買った馬(ダーリントンホール)が僅差の三着で、

払い戻しは0円。といっても800円しか買っていないのだけれど。

 

「あ~惜しかった、今回は運がなかったなぁ」とつぶやいて、ふと思う。

運って何だろう。

駅のホームに着いて目の前で電車の扉が閉まってしまったとき、「運がなかったな」と思う。

いつも並んでいるラーメン屋に待たずに入れたとき、「運がいい」と思う。

なぜ、「電車に乗れなくて悔しい」とか「ラーメンが早く食べられてうれしい」と表現するのでは飽き足らず、私たちは運という言葉を持ち出すのだろうか。そんなもの、存在するのだろうか。

 

運について考えるにあたって、私たちが普段口にするときの「運」というものを思い返してみると、ざっくり2つくらいの共通理解があるように思う。

(1)運は、特定の誰かにとっての良いことを引き起こす目に見えないなにかである。

普通、自分にとって良いことが起きたときに「運が良い」と言うだろう。それは、第1回の「事実」の話と通ずるが、運は常に誰かにとってのものであると思う。Aさんが勝利したテニスの試合は、Aさんにとっては幸運かもしれないが、同時に、負けたBさんは運が悪かったと言えるかもしれない。一つの物事について、誰にとってなのかを抜きに運を語ることは難しいように思う。

そして、運は起こったことそのものというよりは、それを引き起こす裏にある何か、と考えられているように思う。ラーメン屋に早く入れたAさんに「ラーメン屋に早く入れて、よかったね」というのと、「運が、よかったね」というのは意味が違うように感じないだろうか。目に見えない力が働いて、Aさんが早くラーメン屋に入れるという良いことを引き起こした、という前提がそこにはあるように思える。

(2)運は持続して他のものにも影響し、消費される

「最近運が悪い」と口にしたことはないだろうか。(1)で確認した、見えない力としての運は、時間を超えて持続し別の物事にも影響を及ぼす、と考えられている節がある。宝くじが当たった上に競馬にも当たるような時がまさにそうだろう。

そして、商店街の福引でしょうもないTシャツを当ててしまったとき「こんなところで運を使いたくなかった」と言ったことはないだろうか。運は、持続する上に、目減りしてしまう消耗品らしい。

 

さて、今回は(1)に絞って運について考えてみたい。思考実験として、サイコロで6の目が出ることを極上の喜びと感じ、毎朝6の目が出てほしいと思いながら1回サイコロを振ってから出勤していく「サイコロ人間」のことを考えてみよう。

当然、出る目の確率はそれぞれ1/6なので、365日中60日くらいは6の目が出る日があることになる。中には2日3日連続して6の目が出る日もあるだろう。

例えば2022年6月14日から三日連続で6の目が出たとしたら、たぶんサイコロ人間は「最近運がいい」と思うのではないだろうか。さて、ここに運はあるのだろうか。

それは単に確率に従って偶然良いことが続いたということであって運なんていう発想はいらないはずだ、という声も聞こえてきそうだ。たしかに、そこには単なる確率に従った一連の出来事があるだけだ、とも言えるように思う。

6の目が出た日から考えて翌日と翌々日に6の目が出る確率は、1/6×1/6=1/36 だと思う。まぁそんなに無理な確率ではないだろう。

「三日連続で6の目が出たのは、サイコロの確率上十分ありうる偶然であり、運など存在しない」と言えるかもしれない。

 

では、問いの立て方を少しずらしてみるとどうだろうか。6の目が3回続けて出ることは単なる確率に支配されたなんの不思議もない偶然であるとして、「ではなぜその偶然が、他でもない2022年6月14日から起こったのか?

これに答えるのはかなり難しいように思う。

この問いは他にも変奏することができそうだ。

宝くじに当たる確率が1/1000000だとして、今回Bさんではなく他でもないAさんがあたったのはなぜか?あるいは、Bさんがはずれたのはなぜか?

コイントスをして、たったいま裏ではなくて表が出たのはなぜか?」などなどである。つまり、実際に起こった出来事一回一回の理由を問うような問いの立て方である。

例えば、1000回コイントスをして490回が表で510回が裏となったとき、全体像を見てなぜこのような結果になったのか?という問いへの答えは、「確率的に1/2だから」というのは答えである程度納得できるだろう。

しかし、それが起こってしまった後で振り返った時に「なぜ今回このような結果だったのか?」と問うと確率や偶然は答えとして不十分だ。繰り返すが、ではなぜ6の目が3回続けて出るのが今日からではなかったのか、なぜ宝くじにあたったのはBさんではなかったのか、なぜ今回コイントスで裏がでなかったのかには答えられないからだ。コイントスをした子どもから「なんでいま表が出たの?」と素朴に問われたらどう答えるか、と想像してほしい。

そこで、確率に従って起こるものごと一回一回が実際にどうなるのかを決める力、つまり、あくまで確率のルールに従って、その範囲内で、裏から物事をうごかすこっくりさんのような存在として運は存在し得るのではないか。

むしろ、運を持ち出す以外に私たちはそれを説明する言葉を持たないのではないだろうか。

この運の見方は、まるで確率という拘束具を身につけた上で、その範囲で自由に現実世界を描く絵筆を持った神のような存在を髣髴とさせる。

そうであればこそ、サイコロ人間が2022年6月14日から三日間6の目が出続けた理由は「サイコロ人間は2022年6月14日から三日間運が良かったからだ」と説明することができる。

 

ひとまず、駆け足ではあるが一つの今回の結論として、「運は、確率に支配されたルールにしたがって、特定の結果を生み出す力として存在する」としたい。