「第2回:運は存在するか?」に対するツッコミ【調べないこと禁止記事】

今回は、前回ぎゃんたが書いた以下の記事

https://tony-gyanta.hatenablog.com/entry/2022/06/18/073136

に対して、トニーがエディターとしてツッコミをいれていく。前回の記事の最終的な結論は以下である。

 

「運は、確率に支配されたルールにしたがって、特定の結果を生み出す力として存在する」

 

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tony-gyanta.hatenablog.com

 

 しかし運は存在するか?とは面白く、そして難しいお題である。この記事では思い切り的を絞って、ぎゃんたの記事で議論の前提となっており、最後の結論でも用いられている「確率」という言葉について考えを深めていき、前回の記事のぎゃんたの結論に注釈を加えていこうと思う。

 

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 まず、この自然界において「確率」は存在するのか?ということについて考えたいと思う。例えば前回の記事でも触れられている「サイコロを振る行為」を考えてみる。実際に僕やぎゃんたがサイコロをたくさん振れば、それぞれの出目が出る確率は統計的にだいたい1/6になるだろう。このことから、さいころを振った時の目は確率的に決まっていると考えて良さそうである。

 しかし、人がサイコロを振るという行為は力学的な運動である。そして、このような力学的な運動は本来的には確率に従うものではなく、惑星の運動や振り子の運動などと同じように結果が予測可能な決定論的な運動である(例えば、以下の論文を参照。https://www.researchgate.net/publication/234029725_The_three-dimensional_dynamics_of_the_die_throw)。

 そうではあるのだが、実際にサイコロの出目を完璧に予測するためには、サイコロを振る際のサイコロの位置、振る方向と速さを完全にコントロールしなければならず、それはよほどの訓練をしない限り不可能である。なので結果として、サイコロの出目は見かけ上は確率的に振舞っているのである。もしも仮にサイコロの出目を完全に意のままに操れるマジシャンがいるとすれば(ネットで調べると以下の情報が見つかったが真偽は定かではない。https://jp.quora.com/%E6%A9%9F%E6%A2%B0%E3%81%AB%E6%8C%AF%E3%82%89%E3%81%9B%E3%81%9F%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%81%A8-1%E3%82%88%E5%87%BA%E3%81%A6%E3%81%8F%E3%82%8C-%E3%81%A8%E7%A5%88%E3%82%8A%E3%81%AA%E3%81%8C%E3%82%89)、マジシャンの予言通りの出目が確実に出ることにはなるだろう。

 

 さらに極限的な状況として、カオスと呼ばれる現象が生じている場合が考えられる。カオスは、初期値のほんのわずかなずれが大きな変化をもたらす現象である。バタフライエフェクトhttps://gendai.ismedia.jp/articles/-/81562)、二重振り子の運動(https://www.youtube.com/watch?v=25feOUNQB2Y)などは有名なのではないかと思う。

 このようなカオス現象は決定論的ではあるものの、その運動の結果が初期状態に非常に鋭敏に依存するため、どのような高精度なコンピュータによってもその結果が予測不可能である。サイコロを振る際にカオスが生じていれば、どんなに優秀なマジシャンがそのサイコロを振ったとしても、その出目を予測することは不可能ということになる。しかしそれでもサイコロの出目は確率的ではなく、あらかじめ決まってはいるのである。

 

 さらに、原子や電子を扱う量子力学まで話を広げてみる。量子力学では通常、運動が確率的であることが仮定される(例えばブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の「コペンハーゲン解釈」の項を参照)。生きているか死んでいるか箱を開けるまで分からないシュレディンガーの猫の話は有名だろう。

 これによりニュートン以来の決定論的な世界観は破綻したとされることが多いが、しかしながら実は、量子力学に確率論が本当に必要なのかについては議論が続いている(超決定論https://www.youtube.com/watch?v=ytyjgIyegDI)。すなわち、一般的には確率論によって解釈される原子や電子の運動でさえ、本当に確率的なのかどうか確定しているわけではないのである。

 

 さて、専門的な話も多くなってしまったが、ここまでの議論をまとめると、自然界に確率的な事象が本当に存在するかどうかは自明ではなさそうである。しかし、Aさんにサイコロを振らせ、それぞれの出目の「頻度」を求め、その頻度を確率と見なすことは可能である。このような頻度としての確率は客観的確率と呼ばれる(https://glossary.mizuho-sc.com/faq/show/1869?site_domain=default)。また、これとはある意味で反対の概念として、主観的確率というものがある(https://glossary.mizuho-sc.com/faq/show/1865?site_domain=default)。例えば、Aさんにサイコロを振ってもらうという状況を考えてみると、大抵の場合はAさんにそのサイコロを何度も振ってもらってそれぞれの出目の頻度を確認したりはしないだろう。このような場合には、Aさんがそのサイコロを振った時の出目に対する客観的確率は分からない。しかし、「Aさんはサイコロの目をランダムに出す普通の人間であって、そのサイコロには何の細工もされていないだろう」ということを仮定して、それぞれのサイコロの出目が1/6の確率で現れると主観的に解釈することは可能であり、これが主観的確率である。このように、主観的確率は統計データがないようなその場限りの試行に対しても用いることができる。    

 ここで、もしもAさんが、自分のことをサイコロの出目を完璧にコントロールできるマジシャンだと思い込んでいるとしてみよう。そんなAさんが1を出そうとしてサイコロを振る時、Aさんのサイコロの出目に対する主観的確率は1が100%で他の目が0%であるだろう。しかし、そこをたまたま通りかかったBさんは、フラットにそれぞれの出目の確率を1/6と予測するだろう。このように、主観的確率は同一の事象に対して1つには定まらず、人によって異なる確率を割り当てることができる。

 また、同じ個人でも与えられる情報が増えるたびに主観的確率は変わり得る。例えば、Aさんがサイコロを振る直前にBさんに対して「自分は出目を完璧にコントロールできるマジシャンで、次に1が出なかったらあなたに1億円を払う」と言ったら、その時点でBさんは半信半疑ながらも1が出る確率を高めに予測することになるだろう。この時、Aさんが振るサイコロの目に対するBさんの主観的確率が、Aさんの発言によって切り替わったことになる。

 

 ある事象に関して運を語る時には、おそらくその事象を何度も繰り返して事前にその結果の頻度を求めることはあまり現実的ではなく、主観的確率としての確率を想定して運を語る場合が多いのではないかと思う。しかし、頻度が分かった上で運を語ることもないとは言えないので、運の定義としては、客観的確率と主観的確率の両方を含めておくのが妥当だと思われる。この確率についての定義も含め、運はそれを語る人によって色々な解釈があり得るものだろう。これについては、村上さんという「運」の研究者が以下のように語っている(http://chitosepress.com/2021/01/29/4362/)。

 

運自体は…あくまで結果を左右する要因としての不確実な性質を指す呼び名だと思います。その意味で,運は便利な道具のようなものだと思っているのですが,原因にも結果にも,説明を放棄した場合にも同じ運という名前が用いられているのです。その都合のよさ自体が適応的というか,とりわけ日本でよく語られる理由かもしれません。

 

 そして、このような運に対する個々人の考えを「しろうと信念」と呼んでおり(または「個人が主観的に認知しているような、しろうと (lay person) 的な態度」。https://www.jstage.jst.go.jp/article/jssp/18/1/18_KJ00003722513/_pdf/-char/ja)、運に関する最も重要な要素として語られている。

 

 

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 さて、これらの議論を踏まえた上で、前回の記事でぎゃんたが出した結論に以下のように注釈を加えたいと思う。

「運は、『主観的確率もしくは客観的確率に支配されたルールにしたがって、特定の結果を生み出す力』として個々人によって主観的に認知され、利用されるものである」