第3回:マイノリティとは何か?【調べること禁止記事】

 今回はトニーが第3回目のエッセイを担当します。

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tony-gyanta.hatenablog.com

 

今回のテーマは「マイノリティとは何か?」にしてみた。マイノリティは直訳すれば「少数派」ということになるだろう。人種、民族、ジェンダーなど様々な面でマイノリティと呼ばれる人たちがいる。これは疑いようのない事実であろう。では、マイノリティとは果たして何なのだろうか?

 

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まず初めに考えたことは、マイノリティはその集団に所属する人数の大小によって決まるものではないだろう、ということである。

例えば経済力の高さで人間を分類することを考えてみると、たくさんお金を持っている人たちとお金をほとんど持っていない人たちはどちらも少数の集団となる。しかし、マイノリティと呼ばれる可能性があるのは後者のみであるだろう。これは、マイノリティという言葉に、社会から抑圧されているという側面があるからではないかと思う。お金をたくさん持っている人たちは少数の集団ではあるものの、社会から抑圧を受ける立場ではないと考えて問題ないだろう。

マイノリティを考える上では、その集団が少数であることよりも、むしろ、この「社会からの抑圧」が存在することこそが本質的なのではないだろうか。例えば、アメリカ人を人種で分類すると、黒人はその中で最も少ない人種というわけではない(確か、南アフリカアパルトヘイトの場合には、純粋な人数の割合で言えば白人の方が少数派だったようにも記憶している)。しかし、歴史的な経緯を踏まえ、現在も残り続ける根強い差別感情を考慮した上で、黒人のマイノリティ的な側面は重要視されているのであろう。ここで、さらにもう少し考えを深めてみると、アメリカに住む全ての黒人が社会からの大きな抑圧を感じているのかというと必ずしもそうではないのではないか、ということに思い至る。むしろ、そのような差別・被差別的な構造から逃れたいと思う黒人もいるだろう(そのような黒人同士の争いが描かれたドキュメンタリーを見た覚えがある)。けれど、やはりアメリカに住む黒人の多くは何らかの形で社会的抑圧を感じているということも一つの事実のように思われる。推察が多くなってしまったが、もしもこれらの考えが正しいのであれば、ある社会においてマイノリティと呼ばれる集団を定義するためには、マイノリティはその社会におけるある集団であって、その集団の大多数が社会から共通の抑圧を感じている、という要件が必要であろう(ここでの「大多数」は人数的な意味での大多数というよりマジョリティのことであるような気もするが、そうすると、マイノリティの定義とマジョリティの定義が入れ子構造になり、複雑怪奇になってしまう。ここの議論については一旦保留にしておいてエディターからの返事を待ちたいと思う)。

また、当然のことではあるが、この要件が満たされるには、マイノリティと呼ばれる集団を抑圧している集団が、たとえ人数的には少数であったとしても存在している必要がある。しかし、ここにもいくつか注意が必要なのではないかと思う。例えば黒人が白人によって抑圧されているという状況を考える場合、その抑圧を行っているのは白人というカテゴリーとして理解されるべきなのか、それとも直接的に黒人を抑圧しようとしている白人の中の一部の人々として理解されるべきなのか、ということは自明ではないだろう。また、このマイノリティを抑圧している集団は、マジョリティとイコールなのかどうかも議論が必要なように思われる。今回はマイノリティの定義に主眼をおいているので、このようなマジョリティ側の定義についてはまた別の機会に回そうと思う(査読でこの部分に反応があれば、このエッセイの修正版で触れることになるかもしれない)。いずれにしても、マイノリティは抑圧を感じている集団なのではいか、というこのエッセイの主張には変わりはない。

 

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マイノリティをさらに厳密に定義していくためには、上記の要件に加えてさらに、その集団が受けている抑圧が、その社会の中で認知されている、という要件が必要なのではないかと思う。

先ほど述べた「社会から抑圧を受けている」というマイノリティの要件はあまりにも一般的すぎる要件である。例えば、僕は僕自身のみが所属する1つのカテゴリー(トニー類)を作ることが可能であるだろう。そして僕自身が感じている漠然とした、はっきりと言語化もされない社会からの抑圧を、このトニー類が社会から受けている抑圧と考えることも可能であるだろう。しかしこれをもってトニー類がマイノリティとするのは余りにも強引な議論のように思われる。これが可能であれば、おそらく全人類の可能なグループ分けの数だけマイノリティが生まれてしまう。このような何でもありな状況を避けるためには、マイノリティが感じている「社会からの抑圧」がその社会の中で十分に認知されている必要があるのではないだろうか。僕が今勝手に作ったトニー類が受けている社会からの抑圧は社会から全く認知を受けていない。その状況でいくら社会からの抑圧を訴えたとしても、トニー類がマイノリティとして認められることはないだろう。しかし、僕が訴えた社会からの抑圧に多くの人が共感し、一つの集団としてその抑圧を自覚するようになれば、それは新たなマイノリティとして認められるようになるのではないかと思う。そして抑圧が一旦認知されれば、当然その抑圧を解放する方向へと社会は向かうだろう。この解放はおそらく、マイノリティ側の自発的な動きと他の集団からの働きかけの両方によって行われるものである。

例えば、セクシャルマイノリティという概念は最近になってようやく表面化してきたが、今の分類においてセクシャルマイノリティと呼ばれているような人たちがもっと昔から社会からの抑圧を感じてきていただろうことは想像に難くない。その抑圧は最近になって認知され、その結果としてセクシャルマイノリティという概念が重要視され、その抑圧を解放する方向に向かっているのではないかと思う。そしてその抑圧の解放は、セクシャルマイノリティのみによって行われているものではなく、男性や女性とも協力して行われているものである。また、先ほど、たくさんお金を持っている人たちは抑圧を受ける立場ではない、とかなり雑な議論を行ったが、より正確に言えば、仮に抑圧がそこにあったとしてもそれが社会の中で十分に認知されていない、ということではないかと思う。

 

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ここまで駆け足で議論を行ってきたが、マイノリティとは何か?という問いに対するここでの答えを以下のようにしておく。

 

ある社会におけるマイノリティとは、その大多数が社会から共通の抑圧を感じているような集団であり、かつ、その抑圧が社会によって認知されており、さらにその抑圧がその集団自らの動きおよび他の集団からの働きかけによって解放されつつあるような集団である。

 

マイノリティの定義は、最初に想定していた上に難しいものであるように感じた。かなり推察も多くなってしまったので、次の査読で様々な知見をもとにうまく議論をまとめてもらうことを期待したい。