第3回:マイノリティとは何か?へのツッコミ

今回は、

tony-gyanta.hatenablog.com

 

でトニーが独自に展開してくれたマイノリティの定義について、私ぎゃんたが調べ物を駆使して検証、ツッコミを入れていく。

わかりやすいようにトニーの文章からの引用は赤字とする。

 

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マイノリティはその社会におけるある集団であって、その集団の大多数が社会から共通の抑圧を感じている

さて、早速図書館に行き、少し古いが百科事典を引いてみた。

『大日本百科事典 ジャポニカ 11巻』昭和44年の新版だ。

マイノリティという言葉はないにせよ、少数者集団という項目がある。そこには

マイノリティ・少数集団ともいう。肉体的または文化的特質のために、住んでいる社会の中で他と区別されて差別的で不平等な取扱いを受け、したがって集団的差別の対象と考えられている一群の人々。…中略…少数者集団は必ずしも人口量の少なさを意味しない。…以下略」(430ページ)

とある。たしかに、トニーの指摘する通り、人口の少なさというよりは不当に扱われていることにマイノリティの特質があるというのは事典の記載からも言えそうだ。

 

ちなみに、事典ではなく、辞典の『広辞苑』を第一版から引いてみたところ、「マイノリティ」の言葉が項目として登場するのは1998年の第5版からで、これは現在も記載内容が変わらないが、

「少数派。少数民族。↔マジョリティ」とある。

広辞苑的には、あくまで数量の多寡で説明されているが、人間を指す文脈では先のジャポニカのほうがしっくりくるように思う。

 

それ以外のトニーの定義も見てみよう。

かつ、その抑圧が社会によって認知されており、さらにその抑圧がその集団自らの動きおよび他の集団からの働きかけによって解放されつつあるような集団である。

こうした動的な定義は社会学的だなぁとなんとなく思い、社会学の事典を見てみたのだけれど、実はそもそも「マイノリティ」という項目があんまり見つからなかった。マイノリティとされる人々についての個別研究は多いものの、正面切って「マイノリティとは?」と論じている研究は実はかなり少ない印象だった。

見つけた数少ないものは、例えばこれだ。

宮島喬編『岩波小辞典 社会学』(岩波書店 2003年)の「マイノリティ」の項目では「中略…社会の中で何らかの基準、事実を理由として差別され権利を奪われている人びとで、当人たちもそのことを意識し、ときには差別反対や解放のために結束し、抵抗することもある。…以下略」(226ページ)

ここから、トニーの定義にある動的な点も辞書的一般的な意味での社会学にも支持されそうだ。

こうした運動については、『社会学辞典』(丸善 2010年)において「マイノリティ運動」という項目で紹介されていて、アメリカの公民権運動において「『民族的マイノリティの従属的地位の変革を目指す社会運動は、マイノリティ・グループと支配的グループの双方から活動家を得ていく』という仮説命題」(824ページ)についても述べられていて、集団自ら、またその外部から解放に動いていくという点も、トニーの定義とよく合っている。

 

ここまで、トニーの定義は非常によく一般的定義とも合致することが分かった。さて、

ここからはより、厳しいツッコミ的な観点で見ていこう。

その際に参照するのは、まさに今回のテーマにどんぴしゃなタイトルの本『マイノリティとは何か』(ミネルヴァ書房 2007年)である。マイノリティの定義そのものについて正面から論じた数少ない資料だと思われる。

トニーの記事において、あまり注目されていない点でありながら、本書で重視されているのは、マイノリティの属性、すなわち中身についてである。

女性や高齢者など、民族や言語に限らず、抑圧、差別される立場の人々を広くマイノリティと呼称するのは日本や韓国で多い考え方のようだ。このように、広義のマイノリティを本書では「拡散型マイノリティ」と定義している。

一方で1966年の国際人権規約のB規約「自由権規約」の第27条に基づいてナショナル、エスニック、宗教、言語の四つの側面に関しての少数派をマイノリティと呼ぶのがドイツ、ロシア、中国であると述べ、この四側面における狭義のマイノリティを「限定型マイノリティ」と呼んでいる。

筆者は、この限定型マイノリティと拡散型マイノリティを混同して議論することで、特に日本において限定型マイノリティに関する視点が希薄になってしまうことに警鐘を鳴らしている。

筆者はこれらを混同してはいけない理由として、これらのマイノリティに関する大きな違いを2点指摘している。

1点目は

それぞれの集団に属している人々がその集団を特徴づけている、集団を単位として維持してきた特性の次世代以降への継承を求めるのか、逆に集団を特徴づけている「個性」の「解消」を求めるのか、という違いがある。」(412ページ)

わかりやすく例えを出せば、言語的マイノリティは自分たちの言語を守っていこうとして大切にするけれども、貧困層というマイノリティは自らの貧しさそのものを守り大切にしたいのではないということである。

2点目は

それぞれの集団を単位とした自己再生産ができるか否か」(412ページ)

本書であげられて例は、ろう者だ。ろう者を民族とみなす動きがある一方で、筆者は、ろう者が世代的に再生産されるものではない点をあげてこれを否定している。限定型マイノリティは、言語や宗教などを次世代に受け継ぎ、再生産していく。

 

日本において、拡散型の定義が広まった一つ理由として筆者は、

『マジョリティ』である日本人の多くは、『民族』の自覚が問われないかたちで『マイノリティ』概念を受容し、『拡散』させていった状況がある。」(415ページ)と日本における民族に関する意識の低さについて述べている。

たしかに、広辞苑の第一版(昭和30年)を見てみると「少数民族(minority)」となっており(第二版では変化している)、日本でも古くは民族的な意味合いが強かったものと考えられる。

本書の筆者はおそらく拡散型マイノリティの定義自体を否定したいのではなく、いたずらに定義を拡張することでかえって(特に限定型マイノリティのような)それぞれ固有の内実が見えにくくなり、それぞれの集団が抱える問題の解決に良くない影響がある、と考えているように感じた。

 

この記事でここまで見てきたように、たしかに現代においてはトニーの指摘する通り解放を求めて運動する広い意味での被抑圧者集団を指す言葉として定着している「マイノリティ」ではあるが、内実を見てみると、ナショナル、エスニック、宗教、言語に代表されるように、社会的にこれを守ることが望ましく、しかも次世代の継承・再生産が集団内でなされるものと、そうではなく単に処遇の改善や地位の向上などを必要とするものが存在する。あるいは、これらが混合された性質のマイノリティも存在するであろう。

拡散型マイノリティが日本など限られた場所での定義であることや、特に限定型マイノリティの例からわかる、マイノリティの属性に関しても何らかの形で定義に組み込まねばならないのではないだろうか。これを今回のつっこみの結論としたい。