それでも「運」は存在する……!「第2回:運は存在するか?」トニーのツッコミへの回答

私ぎゃんたが、調べ物、引用禁止で「運」について書いた以下のエッセイ

tony-gyanta.hatenablog.com

に、トニーは調べ物を駆使して以下のようなツッコミを入れてくれた。

https://tony-gyanta.hatenablog.com/entry/2022/06/25/083810

tony-gyanta.hatenablog.com

 

そしてこの記事は、最初にエッセイを書いたぎゃんたが、最終結論として再度エッセイを投稿するものだ。

 

そもそも、このブログの仕組みについてはこちらをご覧ください。

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さて、私は最初のエッセイで

「運は、確率に支配されたルールにしたがって、特定の結果を生み出す力として存在する」と書いた。

一回目のエッセイでの、運の考え方ついて簡単におさらいしておきたい。

世界で起こる物事(例えばサイコロを振る)の結果は、ある程度は確率に支配されていて、ランダムに見えてもおおまかな傾向は予測することができる。しかし、今ここで一回サイコロを振る、というような一回の出来事の結果について確率は確かなことを教えてくれず、この具体的な一回の結果がどうなるかを左右する力が「運」である、というのが第一回目のエッセイの結論だった。

それに対してトニーは、確率なんてものがそもそも存在するのかといった根本的な問題や、確率の主観的側面と客観的な側面といった性質を紹介してくれた。

それをうけて、この記事では別の角度から運について考えてみたい。

 

前のツッコミ記事での

しかし、人がサイコロを振るという行為は力学的な運動である。そして、このような力学的な運動は本来的には確率に従うものではなく、惑星の運動や振り子の運動などと同じように結果が予測可能な決定論的な運動である

というトニーの言及はなるほどと唸ってしまう。私は一回目の記事で、サイコロを振るという行為は確率によってざっくりとしか予想できず、一回一回の試行についてはなにもわからない、という前提に立って話していた。つまり、世界には根本的に不確実性があるという前提に立っていた。不確実性があるからこそ、そこに運の力でも仮定しないと、一回一回起こったことへの説明がつかない、と私は考えたのだ。

しかし私がここで一回サイコロを投げるという行為を、夢のスーパーコンピューターで細かく解析すれば、投げた瞬間の手の角度や、投げるスピード、机の天板の滑らかさなどなどから、どの目が出るかを予想することができるだろう。

この場合、子どもが「なんでいま6の目が出たの?」と聞いてきたら、超細かい手の角度や、投げる速度の計算を説明すればよいということになる。サイコロの一回の試行の出目についても、わざわざ「運」なんて考えを導入しなくても説明がつくことになる。

トニーはそこまで言ってないけれども、こういった考え方を極端に進めていくと、例えば0.1秒先の未来の世界のあらゆる出来事は現在のあらゆる物事(原子一つ一つレベルで)をものすごいコンピューターで計算すれば予測ができてしまい、その0.1秒先もさらに予測できてしまい、という風に無限に未来が予測できてしまいそうである。この考え方をすれば、(実際に計算できるかは別にして)未来はすでにすべて確定しているということになる。そこにはもちろん、運なんてないだろう。すべてのことは、決まっていたことがその通り起こっただけである。不確実性もないから、運もない。

世界はすべてあらかじめ未来まで決まっていて、私たちはあらかじめすべて結末までプログラムされたRPGゲームを進めるように、決まった世界を進んでいるだけなのだ、みたいな考え方を聞いたことがあるかもしれないけれど、まさにそれだ。

「いや、それでも私が頭の中で考えることや意思決定はサイコロみたいに予測できるものではない!」と思われるかもしれないけれど、考えというのも脳の電気信号であることを考えると、やっぱり物理現象であることはまず間違いないように思う。

これは結構恐ろしい考え方だと思う。今私は明日の昼ご飯に何を食べるか全く思いついていないのに、実はそれもすでに決まっているし、来月私が競馬で勝つか負けるかも、すべて決まっているみたいなことになるからだ。

世界がこんなふうにしてすべてあらかじめ決まっているということを、私は本気で信じているわけではないけれども、思い切ってこの「運」にとって最高に不利な世界観が本当であるという前提に立って、それでも運は存在するのか考えてみたい。

 

結論から言えば、私はこのような世界観を取るにしても、運という考え方は残りうると思う。

その答えは、「私」にあると思う。

たとえ話になってしまうのだけれど、年末ジャンボ宝くじに当選したAさんと、はずれたBさんについて考えてみよう。

すべて世界が決定されているという世界観に基づけば、もちろんAさんが年末ジャンボに当選することはすべて決まっていたし、Bさんが外れることも決まっていた。

ここで想像力をフルに動かして、あなたはAさんだと思ってほしい。あなたは宝くじが当たって「やった!運が良かった!」と思うだろう。(というかそれどころの喜びでは済まないだろう。)喜びで胸がいっぱいで、何を買おうか、うきうきするだろう。そんな時、目の前を、はずれくじを持ったBさんがしょんぼりと肩を落として通り過ぎる。

その時あなたはふと思う。「なぜ私はAであって、あのBさんとして生まれなかったのだろう」と。「あなた」が、Aさんであることに必然性はないのではないか?

この世界は決定されているから、もちろんAさんが生まれることやBさんが生まれること自体は100年以上前からわかっている、ということになる。しかし、当の「あなた」は、おぎゃあと生まれたとき、Bさんとして生まれていた可能性も十分にあるのではないか。

Aさんが宝くじに当選することも、Bさんが宝くじに外れることもあらかじめ決まっていたけれど、「あなた」がこの世界でAさんであることは、生まれるまで分からなかったのではないか。あなたはBさんとして生まれたかもしれないのだ。これはRPGゲームで、どのキャラクターを選んでゲーム(=世界)を始めるのか、に近いといえばわかりやすいかもしれない。

だからこそ、世界は決まっていても、ほかでもない「あなた」がその世界を誰として経験するかはあらかじめ決まっていないので、そこに運は残ると思う。ここで言う運は、生涯を生きる中で出会う一つ一つの物事についての運ではなくて(それらはすでに決まっているので)、あなたが誰として生きることになるのかを決める、生まれる前に「あなたはAさんとして生まれること」と決めるハリーポッターの組分け帽みたいなものであるはずだ。

 

今回、世界はあらかじめ決まっているという、ものすごく極端な前提をもとに話を進めてみた。

もちろん、私ぎゃんたはそこまでのことは実際思っていないし、具体的にはトニーが紹介した量子力学なんかも絡むと、世界はこのように決定的ではない、とさえ思っている。しかし、世界を思い切り単純化して、過去から未来まですべて決定済みという極端な世界観にしてもなお、運は残り続ける。前回までのように一言の結論にはできないけれども、やはり運はあるのではないか、ということを今回の結論としておきたい。