第3回:マイノリティとは何か -マイノリティの持続性-

 

 今回はトニーがエッセイを担当します。

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 最初のエッセイで僕は、マイノリティについて以下のように定義した。

 

「ある社会においてマイノリティと呼ばれる集団は、その大多数が社会からの抑圧を感じ、また、その抑圧が社会によって認知されている存在である」

 

 それに対してぎゃんたは、マイノリティには拡散型マイノリティと限定型マイノリティの2種類があることを指摘した。上記の定義は拡散型マイノリティに対応するものであり、日本ではよく用いられるようである。その一方で、ドイツなどではマイノリティは限定的に扱われ、ナショナル、エスニック、宗教、言語に対して用いられており、これら4つを特徴付けているのは、「次世代への継承を望むこと」と「自己再生産が可能であること」ということである。これら2つの要素を踏まえた上で、このエッセイでは「マイノリティの持続性」について論じてみたいと思う。

 

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 今マイノリティと呼ばれている人たちは将来的にもマイノリティであり続けるだろうか?

 恐らく、マイノリティがマイノリティでなくなるという現象には2つのパターンがある。1つ目は、マイノリティがマジョリティと同等の集団に変化する場合、2つ目はマイノリティと呼ばれる集団が消滅する(限定型マイノリティにとって望ましくない)場合である。幾つか具体例を挙げて、この問題を考えてみたいと思う。

 

 例えば、限定型マイノリティの一つである人種、その中でもアメリカの人種について考えてみよう。アメリカの人種の割合はそのうち白人を非白人が抜くことが予測されているはずである。さらにその先には白人以外の特定の人種が白人の人口を抜くかもしれない。もちろんこれまで見てきたように、マジョリティとマイノリティの議論は人数だけでは行えず、抑圧と非抑圧の関係こそが重要である。しかし白人が人種としてかなり減るのであれば(そして民主主義社会が持続するのであれば)、そのような状況で他の人種を抑圧する立場にあるとは思えない。そのような状況では、その時に最も人数的に多い白人以外の人種が他の人種を抑圧をする立場にあるのが自然だろう。繰り返しになるが、その時にマジョリティである人種は今の段階ではマイノリティである白人以外の人種である。このような予測は単純な予測ではあるが、あり得る未来の一つなのではないかと思う。もしそうなれば、今マイノリティと呼ばれている人種が将来的にはマジョリティになることになる。このように、マイノリティやマジョリティと呼ばれている人種は、その先も永遠にマイノリティやマジョリティであり続けるとは限らないのではないかと思う。また、このような状況は、人種に限らず全ての限定型マイノリティに共通して起こることであるだろう。

 一方で、ナチスによるユダヤ人の虐殺などのように特定の人種が差別され、さらに虐殺されるような状況では、マイノリティである人種に属する人々そのものが存続しなくなるという意味でマイノリティは消滅するだろう。

 

 次に、拡散型マイノリティの一つである貧困層について考えてみよう。貧困層はその定義から、富裕層に比べれば経済的な面で多くの制約を受けて生きることになるため、貧困層が一切の抑圧を感じなくなるような社会というのはなかなか実現されないのではないかと思う。

 また、貧困層そのものがいなくなるという状況も資本主義社会においてはあり得ないだろう。ある時期に貧困層に属している個人がその後自身の努力かもしくは宝くじに当たるなどによって中間層や富裕層になることはあり得るだろう。また、国家が貧困層を経済的に支援することもあり得るだろう。しかし、どのような状況においても、資本主義社会では貧困層という層それ自体がなくなることはあり得ないように思われる。一方で全財産を共有するような共産主義社会では、貧困層という層はそもそも存在しないだろう。つまり、貧困層は資本主義社会ではマイノリティとして持続するだろうが、社会体制が共産主義社会などに変われば消滅すると思われる。

 

 さらに、別の拡散型マイノリティとして障がい者、特に精神障がい者について考えてみよう。精神的な障がい者というカテゴリーについて考えると、医療技術がどれだけ進歩してもそのカテゴリーに属する人々をなくすことは不可能であるように個人的には思う。それは、精神というものが究極的に理解されることは恐らくないだろうと思うためである。これは単なる推測にはなるが、恐らく起こり得ることはむしろその逆で、起こるとすればそれは、人類の多くが何らかの重大な精神的な疾患を抱えているということが明らかになることなのではないかと思う。例えば、既に今でも様々な物事に対して「恐怖症」が定義されている(ウィキペディアなどで調べるとそのカテゴリーの多さに驚く)。脳科学の発展によってさらに精密にこのような精神状況が解明されていけば、ゆくゆくは皆なにかしらの精神障がいを持っているのが常識になる、という話はそこまで非現実的な話ではないのではないのだろうか。そうなれば精神障がい者はもはやマイノリティではなく、マジョリティとなる。

 

 これらの例で見てきたように、マイノリティというのはカテゴリーが持つ永続的な属性として決まっているものではなさそうである。マイノリティ自身の意志も重要ではあるが、それ以外の様々な要因から、それぞれの集団はマイノリティからマジョリティになることもあり、もしくは、その集団そのものが消滅することによってマイノリティでなくなることもあるだろう。

 

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 最後に一つ問いかけをしたいと思う。

 人間には様々な側面がある。人種、国籍、性別などなど。例えばある一つの側面を考えた時、あなたはマジョリティだろうか?それともマイノリティだろうか?

第3回:マイノリティとは何か?へのツッコミ

今回は、

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でトニーが独自に展開してくれたマイノリティの定義について、私ぎゃんたが調べ物を駆使して検証、ツッコミを入れていく。

わかりやすいようにトニーの文章からの引用は赤字とする。

 

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マイノリティはその社会におけるある集団であって、その集団の大多数が社会から共通の抑圧を感じている

さて、早速図書館に行き、少し古いが百科事典を引いてみた。

『大日本百科事典 ジャポニカ 11巻』昭和44年の新版だ。

マイノリティという言葉はないにせよ、少数者集団という項目がある。そこには

マイノリティ・少数集団ともいう。肉体的または文化的特質のために、住んでいる社会の中で他と区別されて差別的で不平等な取扱いを受け、したがって集団的差別の対象と考えられている一群の人々。…中略…少数者集団は必ずしも人口量の少なさを意味しない。…以下略」(430ページ)

とある。たしかに、トニーの指摘する通り、人口の少なさというよりは不当に扱われていることにマイノリティの特質があるというのは事典の記載からも言えそうだ。

 

ちなみに、事典ではなく、辞典の『広辞苑』を第一版から引いてみたところ、「マイノリティ」の言葉が項目として登場するのは1998年の第5版からで、これは現在も記載内容が変わらないが、

「少数派。少数民族。↔マジョリティ」とある。

広辞苑的には、あくまで数量の多寡で説明されているが、人間を指す文脈では先のジャポニカのほうがしっくりくるように思う。

 

それ以外のトニーの定義も見てみよう。

かつ、その抑圧が社会によって認知されており、さらにその抑圧がその集団自らの動きおよび他の集団からの働きかけによって解放されつつあるような集団である。

こうした動的な定義は社会学的だなぁとなんとなく思い、社会学の事典を見てみたのだけれど、実はそもそも「マイノリティ」という項目があんまり見つからなかった。マイノリティとされる人々についての個別研究は多いものの、正面切って「マイノリティとは?」と論じている研究は実はかなり少ない印象だった。

見つけた数少ないものは、例えばこれだ。

宮島喬編『岩波小辞典 社会学』(岩波書店 2003年)の「マイノリティ」の項目では「中略…社会の中で何らかの基準、事実を理由として差別され権利を奪われている人びとで、当人たちもそのことを意識し、ときには差別反対や解放のために結束し、抵抗することもある。…以下略」(226ページ)

ここから、トニーの定義にある動的な点も辞書的一般的な意味での社会学にも支持されそうだ。

こうした運動については、『社会学辞典』(丸善 2010年)において「マイノリティ運動」という項目で紹介されていて、アメリカの公民権運動において「『民族的マイノリティの従属的地位の変革を目指す社会運動は、マイノリティ・グループと支配的グループの双方から活動家を得ていく』という仮説命題」(824ページ)についても述べられていて、集団自ら、またその外部から解放に動いていくという点も、トニーの定義とよく合っている。

 

ここまで、トニーの定義は非常によく一般的定義とも合致することが分かった。さて、

ここからはより、厳しいツッコミ的な観点で見ていこう。

その際に参照するのは、まさに今回のテーマにどんぴしゃなタイトルの本『マイノリティとは何か』(ミネルヴァ書房 2007年)である。マイノリティの定義そのものについて正面から論じた数少ない資料だと思われる。

トニーの記事において、あまり注目されていない点でありながら、本書で重視されているのは、マイノリティの属性、すなわち中身についてである。

女性や高齢者など、民族や言語に限らず、抑圧、差別される立場の人々を広くマイノリティと呼称するのは日本や韓国で多い考え方のようだ。このように、広義のマイノリティを本書では「拡散型マイノリティ」と定義している。

一方で1966年の国際人権規約のB規約「自由権規約」の第27条に基づいてナショナル、エスニック、宗教、言語の四つの側面に関しての少数派をマイノリティと呼ぶのがドイツ、ロシア、中国であると述べ、この四側面における狭義のマイノリティを「限定型マイノリティ」と呼んでいる。

筆者は、この限定型マイノリティと拡散型マイノリティを混同して議論することで、特に日本において限定型マイノリティに関する視点が希薄になってしまうことに警鐘を鳴らしている。

筆者はこれらを混同してはいけない理由として、これらのマイノリティに関する大きな違いを2点指摘している。

1点目は

それぞれの集団に属している人々がその集団を特徴づけている、集団を単位として維持してきた特性の次世代以降への継承を求めるのか、逆に集団を特徴づけている「個性」の「解消」を求めるのか、という違いがある。」(412ページ)

わかりやすく例えを出せば、言語的マイノリティは自分たちの言語を守っていこうとして大切にするけれども、貧困層というマイノリティは自らの貧しさそのものを守り大切にしたいのではないということである。

2点目は

それぞれの集団を単位とした自己再生産ができるか否か」(412ページ)

本書であげられて例は、ろう者だ。ろう者を民族とみなす動きがある一方で、筆者は、ろう者が世代的に再生産されるものではない点をあげてこれを否定している。限定型マイノリティは、言語や宗教などを次世代に受け継ぎ、再生産していく。

 

日本において、拡散型の定義が広まった一つ理由として筆者は、

『マジョリティ』である日本人の多くは、『民族』の自覚が問われないかたちで『マイノリティ』概念を受容し、『拡散』させていった状況がある。」(415ページ)と日本における民族に関する意識の低さについて述べている。

たしかに、広辞苑の第一版(昭和30年)を見てみると「少数民族(minority)」となっており(第二版では変化している)、日本でも古くは民族的な意味合いが強かったものと考えられる。

本書の筆者はおそらく拡散型マイノリティの定義自体を否定したいのではなく、いたずらに定義を拡張することでかえって(特に限定型マイノリティのような)それぞれ固有の内実が見えにくくなり、それぞれの集団が抱える問題の解決に良くない影響がある、と考えているように感じた。

 

この記事でここまで見てきたように、たしかに現代においてはトニーの指摘する通り解放を求めて運動する広い意味での被抑圧者集団を指す言葉として定着している「マイノリティ」ではあるが、内実を見てみると、ナショナル、エスニック、宗教、言語に代表されるように、社会的にこれを守ることが望ましく、しかも次世代の継承・再生産が集団内でなされるものと、そうではなく単に処遇の改善や地位の向上などを必要とするものが存在する。あるいは、これらが混合された性質のマイノリティも存在するであろう。

拡散型マイノリティが日本など限られた場所での定義であることや、特に限定型マイノリティの例からわかる、マイノリティの属性に関しても何らかの形で定義に組み込まねばならないのではないだろうか。これを今回のつっこみの結論としたい。

第3回:マイノリティとは何か?【調べること禁止記事】

 今回はトニーが第3回目のエッセイを担当します。

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今回のテーマは「マイノリティとは何か?」にしてみた。マイノリティは直訳すれば「少数派」ということになるだろう。人種、民族、ジェンダーなど様々な面でマイノリティと呼ばれる人たちがいる。これは疑いようのない事実であろう。では、マイノリティとは果たして何なのだろうか?

 

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まず初めに考えたことは、マイノリティはその集団に所属する人数の大小によって決まるものではないだろう、ということである。

例えば経済力の高さで人間を分類することを考えてみると、たくさんお金を持っている人たちとお金をほとんど持っていない人たちはどちらも少数の集団となる。しかし、マイノリティと呼ばれる可能性があるのは後者のみであるだろう。これは、マイノリティという言葉に、社会から抑圧されているという側面があるからではないかと思う。お金をたくさん持っている人たちは少数の集団ではあるものの、社会から抑圧を受ける立場ではないと考えて問題ないだろう。

マイノリティを考える上では、その集団が少数であることよりも、むしろ、この「社会からの抑圧」が存在することこそが本質的なのではないだろうか。例えば、アメリカ人を人種で分類すると、黒人はその中で最も少ない人種というわけではない(確か、南アフリカアパルトヘイトの場合には、純粋な人数の割合で言えば白人の方が少数派だったようにも記憶している)。しかし、歴史的な経緯を踏まえ、現在も残り続ける根強い差別感情を考慮した上で、黒人のマイノリティ的な側面は重要視されているのであろう。ここで、さらにもう少し考えを深めてみると、アメリカに住む全ての黒人が社会からの大きな抑圧を感じているのかというと必ずしもそうではないのではないか、ということに思い至る。むしろ、そのような差別・被差別的な構造から逃れたいと思う黒人もいるだろう(そのような黒人同士の争いが描かれたドキュメンタリーを見た覚えがある)。けれど、やはりアメリカに住む黒人の多くは何らかの形で社会的抑圧を感じているということも一つの事実のように思われる。推察が多くなってしまったが、もしもこれらの考えが正しいのであれば、ある社会においてマイノリティと呼ばれる集団を定義するためには、マイノリティはその社会におけるある集団であって、その集団の大多数が社会から共通の抑圧を感じている、という要件が必要であろう(ここでの「大多数」は人数的な意味での大多数というよりマジョリティのことであるような気もするが、そうすると、マイノリティの定義とマジョリティの定義が入れ子構造になり、複雑怪奇になってしまう。ここの議論については一旦保留にしておいてエディターからの返事を待ちたいと思う)。

また、当然のことではあるが、この要件が満たされるには、マイノリティと呼ばれる集団を抑圧している集団が、たとえ人数的には少数であったとしても存在している必要がある。しかし、ここにもいくつか注意が必要なのではないかと思う。例えば黒人が白人によって抑圧されているという状況を考える場合、その抑圧を行っているのは白人というカテゴリーとして理解されるべきなのか、それとも直接的に黒人を抑圧しようとしている白人の中の一部の人々として理解されるべきなのか、ということは自明ではないだろう。また、このマイノリティを抑圧している集団は、マジョリティとイコールなのかどうかも議論が必要なように思われる。今回はマイノリティの定義に主眼をおいているので、このようなマジョリティ側の定義についてはまた別の機会に回そうと思う(査読でこの部分に反応があれば、このエッセイの修正版で触れることになるかもしれない)。いずれにしても、マイノリティは抑圧を感じている集団なのではいか、というこのエッセイの主張には変わりはない。

 

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マイノリティをさらに厳密に定義していくためには、上記の要件に加えてさらに、その集団が受けている抑圧が、その社会の中で認知されている、という要件が必要なのではないかと思う。

先ほど述べた「社会から抑圧を受けている」というマイノリティの要件はあまりにも一般的すぎる要件である。例えば、僕は僕自身のみが所属する1つのカテゴリー(トニー類)を作ることが可能であるだろう。そして僕自身が感じている漠然とした、はっきりと言語化もされない社会からの抑圧を、このトニー類が社会から受けている抑圧と考えることも可能であるだろう。しかしこれをもってトニー類がマイノリティとするのは余りにも強引な議論のように思われる。これが可能であれば、おそらく全人類の可能なグループ分けの数だけマイノリティが生まれてしまう。このような何でもありな状況を避けるためには、マイノリティが感じている「社会からの抑圧」がその社会の中で十分に認知されている必要があるのではないだろうか。僕が今勝手に作ったトニー類が受けている社会からの抑圧は社会から全く認知を受けていない。その状況でいくら社会からの抑圧を訴えたとしても、トニー類がマイノリティとして認められることはないだろう。しかし、僕が訴えた社会からの抑圧に多くの人が共感し、一つの集団としてその抑圧を自覚するようになれば、それは新たなマイノリティとして認められるようになるのではないかと思う。そして抑圧が一旦認知されれば、当然その抑圧を解放する方向へと社会は向かうだろう。この解放はおそらく、マイノリティ側の自発的な動きと他の集団からの働きかけの両方によって行われるものである。

例えば、セクシャルマイノリティという概念は最近になってようやく表面化してきたが、今の分類においてセクシャルマイノリティと呼ばれているような人たちがもっと昔から社会からの抑圧を感じてきていただろうことは想像に難くない。その抑圧は最近になって認知され、その結果としてセクシャルマイノリティという概念が重要視され、その抑圧を解放する方向に向かっているのではないかと思う。そしてその抑圧の解放は、セクシャルマイノリティのみによって行われているものではなく、男性や女性とも協力して行われているものである。また、先ほど、たくさんお金を持っている人たちは抑圧を受ける立場ではない、とかなり雑な議論を行ったが、より正確に言えば、仮に抑圧がそこにあったとしてもそれが社会の中で十分に認知されていない、ということではないかと思う。

 

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ここまで駆け足で議論を行ってきたが、マイノリティとは何か?という問いに対するここでの答えを以下のようにしておく。

 

ある社会におけるマイノリティとは、その大多数が社会から共通の抑圧を感じているような集団であり、かつ、その抑圧が社会によって認知されており、さらにその抑圧がその集団自らの動きおよび他の集団からの働きかけによって解放されつつあるような集団である。

 

マイノリティの定義は、最初に想定していた上に難しいものであるように感じた。かなり推察も多くなってしまったので、次の査読で様々な知見をもとにうまく議論をまとめてもらうことを期待したい。

それでも「運」は存在する……!「第2回:運は存在するか?」トニーのツッコミへの回答

私ぎゃんたが、調べ物、引用禁止で「運」について書いた以下のエッセイ

tony-gyanta.hatenablog.com

に、トニーは調べ物を駆使して以下のようなツッコミを入れてくれた。

https://tony-gyanta.hatenablog.com/entry/2022/06/25/083810

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そしてこの記事は、最初にエッセイを書いたぎゃんたが、最終結論として再度エッセイを投稿するものだ。

 

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さて、私は最初のエッセイで

「運は、確率に支配されたルールにしたがって、特定の結果を生み出す力として存在する」と書いた。

一回目のエッセイでの、運の考え方ついて簡単におさらいしておきたい。

世界で起こる物事(例えばサイコロを振る)の結果は、ある程度は確率に支配されていて、ランダムに見えてもおおまかな傾向は予測することができる。しかし、今ここで一回サイコロを振る、というような一回の出来事の結果について確率は確かなことを教えてくれず、この具体的な一回の結果がどうなるかを左右する力が「運」である、というのが第一回目のエッセイの結論だった。

それに対してトニーは、確率なんてものがそもそも存在するのかといった根本的な問題や、確率の主観的側面と客観的な側面といった性質を紹介してくれた。

それをうけて、この記事では別の角度から運について考えてみたい。

 

前のツッコミ記事での

しかし、人がサイコロを振るという行為は力学的な運動である。そして、このような力学的な運動は本来的には確率に従うものではなく、惑星の運動や振り子の運動などと同じように結果が予測可能な決定論的な運動である

というトニーの言及はなるほどと唸ってしまう。私は一回目の記事で、サイコロを振るという行為は確率によってざっくりとしか予想できず、一回一回の試行についてはなにもわからない、という前提に立って話していた。つまり、世界には根本的に不確実性があるという前提に立っていた。不確実性があるからこそ、そこに運の力でも仮定しないと、一回一回起こったことへの説明がつかない、と私は考えたのだ。

しかし私がここで一回サイコロを投げるという行為を、夢のスーパーコンピューターで細かく解析すれば、投げた瞬間の手の角度や、投げるスピード、机の天板の滑らかさなどなどから、どの目が出るかを予想することができるだろう。

この場合、子どもが「なんでいま6の目が出たの?」と聞いてきたら、超細かい手の角度や、投げる速度の計算を説明すればよいということになる。サイコロの一回の試行の出目についても、わざわざ「運」なんて考えを導入しなくても説明がつくことになる。

トニーはそこまで言ってないけれども、こういった考え方を極端に進めていくと、例えば0.1秒先の未来の世界のあらゆる出来事は現在のあらゆる物事(原子一つ一つレベルで)をものすごいコンピューターで計算すれば予測ができてしまい、その0.1秒先もさらに予測できてしまい、という風に無限に未来が予測できてしまいそうである。この考え方をすれば、(実際に計算できるかは別にして)未来はすでにすべて確定しているということになる。そこにはもちろん、運なんてないだろう。すべてのことは、決まっていたことがその通り起こっただけである。不確実性もないから、運もない。

世界はすべてあらかじめ未来まで決まっていて、私たちはあらかじめすべて結末までプログラムされたRPGゲームを進めるように、決まった世界を進んでいるだけなのだ、みたいな考え方を聞いたことがあるかもしれないけれど、まさにそれだ。

「いや、それでも私が頭の中で考えることや意思決定はサイコロみたいに予測できるものではない!」と思われるかもしれないけれど、考えというのも脳の電気信号であることを考えると、やっぱり物理現象であることはまず間違いないように思う。

これは結構恐ろしい考え方だと思う。今私は明日の昼ご飯に何を食べるか全く思いついていないのに、実はそれもすでに決まっているし、来月私が競馬で勝つか負けるかも、すべて決まっているみたいなことになるからだ。

世界がこんなふうにしてすべてあらかじめ決まっているということを、私は本気で信じているわけではないけれども、思い切ってこの「運」にとって最高に不利な世界観が本当であるという前提に立って、それでも運は存在するのか考えてみたい。

 

結論から言えば、私はこのような世界観を取るにしても、運という考え方は残りうると思う。

その答えは、「私」にあると思う。

たとえ話になってしまうのだけれど、年末ジャンボ宝くじに当選したAさんと、はずれたBさんについて考えてみよう。

すべて世界が決定されているという世界観に基づけば、もちろんAさんが年末ジャンボに当選することはすべて決まっていたし、Bさんが外れることも決まっていた。

ここで想像力をフルに動かして、あなたはAさんだと思ってほしい。あなたは宝くじが当たって「やった!運が良かった!」と思うだろう。(というかそれどころの喜びでは済まないだろう。)喜びで胸がいっぱいで、何を買おうか、うきうきするだろう。そんな時、目の前を、はずれくじを持ったBさんがしょんぼりと肩を落として通り過ぎる。

その時あなたはふと思う。「なぜ私はAであって、あのBさんとして生まれなかったのだろう」と。「あなた」が、Aさんであることに必然性はないのではないか?

この世界は決定されているから、もちろんAさんが生まれることやBさんが生まれること自体は100年以上前からわかっている、ということになる。しかし、当の「あなた」は、おぎゃあと生まれたとき、Bさんとして生まれていた可能性も十分にあるのではないか。

Aさんが宝くじに当選することも、Bさんが宝くじに外れることもあらかじめ決まっていたけれど、「あなた」がこの世界でAさんであることは、生まれるまで分からなかったのではないか。あなたはBさんとして生まれたかもしれないのだ。これはRPGゲームで、どのキャラクターを選んでゲーム(=世界)を始めるのか、に近いといえばわかりやすいかもしれない。

だからこそ、世界は決まっていても、ほかでもない「あなた」がその世界を誰として経験するかはあらかじめ決まっていないので、そこに運は残ると思う。ここで言う運は、生涯を生きる中で出会う一つ一つの物事についての運ではなくて(それらはすでに決まっているので)、あなたが誰として生きることになるのかを決める、生まれる前に「あなたはAさんとして生まれること」と決めるハリーポッターの組分け帽みたいなものであるはずだ。

 

今回、世界はあらかじめ決まっているという、ものすごく極端な前提をもとに話を進めてみた。

もちろん、私ぎゃんたはそこまでのことは実際思っていないし、具体的にはトニーが紹介した量子力学なんかも絡むと、世界はこのように決定的ではない、とさえ思っている。しかし、世界を思い切り単純化して、過去から未来まですべて決定済みという極端な世界観にしてもなお、運は残り続ける。前回までのように一言の結論にはできないけれども、やはり運はあるのではないか、ということを今回の結論としておきたい。

「第2回:運は存在するか?」に対するツッコミ【調べないこと禁止記事】

今回は、前回ぎゃんたが書いた以下の記事

https://tony-gyanta.hatenablog.com/entry/2022/06/18/073136

に対して、トニーがエディターとしてツッコミをいれていく。前回の記事の最終的な結論は以下である。

 

「運は、確率に支配されたルールにしたがって、特定の結果を生み出す力として存在する」

 

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 しかし運は存在するか?とは面白く、そして難しいお題である。この記事では思い切り的を絞って、ぎゃんたの記事で議論の前提となっており、最後の結論でも用いられている「確率」という言葉について考えを深めていき、前回の記事のぎゃんたの結論に注釈を加えていこうと思う。

 

***

 

 まず、この自然界において「確率」は存在するのか?ということについて考えたいと思う。例えば前回の記事でも触れられている「サイコロを振る行為」を考えてみる。実際に僕やぎゃんたがサイコロをたくさん振れば、それぞれの出目が出る確率は統計的にだいたい1/6になるだろう。このことから、さいころを振った時の目は確率的に決まっていると考えて良さそうである。

 しかし、人がサイコロを振るという行為は力学的な運動である。そして、このような力学的な運動は本来的には確率に従うものではなく、惑星の運動や振り子の運動などと同じように結果が予測可能な決定論的な運動である(例えば、以下の論文を参照。https://www.researchgate.net/publication/234029725_The_three-dimensional_dynamics_of_the_die_throw)。

 そうではあるのだが、実際にサイコロの出目を完璧に予測するためには、サイコロを振る際のサイコロの位置、振る方向と速さを完全にコントロールしなければならず、それはよほどの訓練をしない限り不可能である。なので結果として、サイコロの出目は見かけ上は確率的に振舞っているのである。もしも仮にサイコロの出目を完全に意のままに操れるマジシャンがいるとすれば(ネットで調べると以下の情報が見つかったが真偽は定かではない。https://jp.quora.com/%E6%A9%9F%E6%A2%B0%E3%81%AB%E6%8C%AF%E3%82%89%E3%81%9B%E3%81%9F%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%81%A8-1%E3%82%88%E5%87%BA%E3%81%A6%E3%81%8F%E3%82%8C-%E3%81%A8%E7%A5%88%E3%82%8A%E3%81%AA%E3%81%8C%E3%82%89)、マジシャンの予言通りの出目が確実に出ることにはなるだろう。

 

 さらに極限的な状況として、カオスと呼ばれる現象が生じている場合が考えられる。カオスは、初期値のほんのわずかなずれが大きな変化をもたらす現象である。バタフライエフェクトhttps://gendai.ismedia.jp/articles/-/81562)、二重振り子の運動(https://www.youtube.com/watch?v=25feOUNQB2Y)などは有名なのではないかと思う。

 このようなカオス現象は決定論的ではあるものの、その運動の結果が初期状態に非常に鋭敏に依存するため、どのような高精度なコンピュータによってもその結果が予測不可能である。サイコロを振る際にカオスが生じていれば、どんなに優秀なマジシャンがそのサイコロを振ったとしても、その出目を予測することは不可能ということになる。しかしそれでもサイコロの出目は確率的ではなく、あらかじめ決まってはいるのである。

 

 さらに、原子や電子を扱う量子力学まで話を広げてみる。量子力学では通常、運動が確率的であることが仮定される(例えばブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の「コペンハーゲン解釈」の項を参照)。生きているか死んでいるか箱を開けるまで分からないシュレディンガーの猫の話は有名だろう。

 これによりニュートン以来の決定論的な世界観は破綻したとされることが多いが、しかしながら実は、量子力学に確率論が本当に必要なのかについては議論が続いている(超決定論https://www.youtube.com/watch?v=ytyjgIyegDI)。すなわち、一般的には確率論によって解釈される原子や電子の運動でさえ、本当に確率的なのかどうか確定しているわけではないのである。

 

 さて、専門的な話も多くなってしまったが、ここまでの議論をまとめると、自然界に確率的な事象が本当に存在するかどうかは自明ではなさそうである。しかし、Aさんにサイコロを振らせ、それぞれの出目の「頻度」を求め、その頻度を確率と見なすことは可能である。このような頻度としての確率は客観的確率と呼ばれる(https://glossary.mizuho-sc.com/faq/show/1869?site_domain=default)。また、これとはある意味で反対の概念として、主観的確率というものがある(https://glossary.mizuho-sc.com/faq/show/1865?site_domain=default)。例えば、Aさんにサイコロを振ってもらうという状況を考えてみると、大抵の場合はAさんにそのサイコロを何度も振ってもらってそれぞれの出目の頻度を確認したりはしないだろう。このような場合には、Aさんがそのサイコロを振った時の出目に対する客観的確率は分からない。しかし、「Aさんはサイコロの目をランダムに出す普通の人間であって、そのサイコロには何の細工もされていないだろう」ということを仮定して、それぞれのサイコロの出目が1/6の確率で現れると主観的に解釈することは可能であり、これが主観的確率である。このように、主観的確率は統計データがないようなその場限りの試行に対しても用いることができる。    

 ここで、もしもAさんが、自分のことをサイコロの出目を完璧にコントロールできるマジシャンだと思い込んでいるとしてみよう。そんなAさんが1を出そうとしてサイコロを振る時、Aさんのサイコロの出目に対する主観的確率は1が100%で他の目が0%であるだろう。しかし、そこをたまたま通りかかったBさんは、フラットにそれぞれの出目の確率を1/6と予測するだろう。このように、主観的確率は同一の事象に対して1つには定まらず、人によって異なる確率を割り当てることができる。

 また、同じ個人でも与えられる情報が増えるたびに主観的確率は変わり得る。例えば、Aさんがサイコロを振る直前にBさんに対して「自分は出目を完璧にコントロールできるマジシャンで、次に1が出なかったらあなたに1億円を払う」と言ったら、その時点でBさんは半信半疑ながらも1が出る確率を高めに予測することになるだろう。この時、Aさんが振るサイコロの目に対するBさんの主観的確率が、Aさんの発言によって切り替わったことになる。

 

 ある事象に関して運を語る時には、おそらくその事象を何度も繰り返して事前にその結果の頻度を求めることはあまり現実的ではなく、主観的確率としての確率を想定して運を語る場合が多いのではないかと思う。しかし、頻度が分かった上で運を語ることもないとは言えないので、運の定義としては、客観的確率と主観的確率の両方を含めておくのが妥当だと思われる。この確率についての定義も含め、運はそれを語る人によって色々な解釈があり得るものだろう。これについては、村上さんという「運」の研究者が以下のように語っている(http://chitosepress.com/2021/01/29/4362/)。

 

運自体は…あくまで結果を左右する要因としての不確実な性質を指す呼び名だと思います。その意味で,運は便利な道具のようなものだと思っているのですが,原因にも結果にも,説明を放棄した場合にも同じ運という名前が用いられているのです。その都合のよさ自体が適応的というか,とりわけ日本でよく語られる理由かもしれません。

 

 そして、このような運に対する個々人の考えを「しろうと信念」と呼んでおり(または「個人が主観的に認知しているような、しろうと (lay person) 的な態度」。https://www.jstage.jst.go.jp/article/jssp/18/1/18_KJ00003722513/_pdf/-char/ja)、運に関する最も重要な要素として語られている。

 

 

***

 

 さて、これらの議論を踏まえた上で、前回の記事でぎゃんたが出した結論に以下のように注釈を加えたいと思う。

「運は、『主観的確率もしくは客観的確率に支配されたルールにしたがって、特定の結果を生み出す力』として個々人によって主観的に認知され、利用されるものである」

 

第2回:運は存在するか?【調べもの禁止記事】

今回は私ぎゃんたがエッセイストです。一切調べることなく、「運は存在するか?」をテーマにエッセイを書いていきます。

 

このブログの仕組みについてはこちらをご覧ください。

tony-gyanta.hatenablog.com

 

 

先週末、東京競馬場に競馬のG3レースであるエプソムカップを見に行った。

二着までに入ると予想して買った馬(ダーリントンホール)が僅差の三着で、

払い戻しは0円。といっても800円しか買っていないのだけれど。

 

「あ~惜しかった、今回は運がなかったなぁ」とつぶやいて、ふと思う。

運って何だろう。

駅のホームに着いて目の前で電車の扉が閉まってしまったとき、「運がなかったな」と思う。

いつも並んでいるラーメン屋に待たずに入れたとき、「運がいい」と思う。

なぜ、「電車に乗れなくて悔しい」とか「ラーメンが早く食べられてうれしい」と表現するのでは飽き足らず、私たちは運という言葉を持ち出すのだろうか。そんなもの、存在するのだろうか。

 

運について考えるにあたって、私たちが普段口にするときの「運」というものを思い返してみると、ざっくり2つくらいの共通理解があるように思う。

(1)運は、特定の誰かにとっての良いことを引き起こす目に見えないなにかである。

普通、自分にとって良いことが起きたときに「運が良い」と言うだろう。それは、第1回の「事実」の話と通ずるが、運は常に誰かにとってのものであると思う。Aさんが勝利したテニスの試合は、Aさんにとっては幸運かもしれないが、同時に、負けたBさんは運が悪かったと言えるかもしれない。一つの物事について、誰にとってなのかを抜きに運を語ることは難しいように思う。

そして、運は起こったことそのものというよりは、それを引き起こす裏にある何か、と考えられているように思う。ラーメン屋に早く入れたAさんに「ラーメン屋に早く入れて、よかったね」というのと、「運が、よかったね」というのは意味が違うように感じないだろうか。目に見えない力が働いて、Aさんが早くラーメン屋に入れるという良いことを引き起こした、という前提がそこにはあるように思える。

(2)運は持続して他のものにも影響し、消費される

「最近運が悪い」と口にしたことはないだろうか。(1)で確認した、見えない力としての運は、時間を超えて持続し別の物事にも影響を及ぼす、と考えられている節がある。宝くじが当たった上に競馬にも当たるような時がまさにそうだろう。

そして、商店街の福引でしょうもないTシャツを当ててしまったとき「こんなところで運を使いたくなかった」と言ったことはないだろうか。運は、持続する上に、目減りしてしまう消耗品らしい。

 

さて、今回は(1)に絞って運について考えてみたい。思考実験として、サイコロで6の目が出ることを極上の喜びと感じ、毎朝6の目が出てほしいと思いながら1回サイコロを振ってから出勤していく「サイコロ人間」のことを考えてみよう。

当然、出る目の確率はそれぞれ1/6なので、365日中60日くらいは6の目が出る日があることになる。中には2日3日連続して6の目が出る日もあるだろう。

例えば2022年6月14日から三日連続で6の目が出たとしたら、たぶんサイコロ人間は「最近運がいい」と思うのではないだろうか。さて、ここに運はあるのだろうか。

それは単に確率に従って偶然良いことが続いたということであって運なんていう発想はいらないはずだ、という声も聞こえてきそうだ。たしかに、そこには単なる確率に従った一連の出来事があるだけだ、とも言えるように思う。

6の目が出た日から考えて翌日と翌々日に6の目が出る確率は、1/6×1/6=1/36 だと思う。まぁそんなに無理な確率ではないだろう。

「三日連続で6の目が出たのは、サイコロの確率上十分ありうる偶然であり、運など存在しない」と言えるかもしれない。

 

では、問いの立て方を少しずらしてみるとどうだろうか。6の目が3回続けて出ることは単なる確率に支配されたなんの不思議もない偶然であるとして、「ではなぜその偶然が、他でもない2022年6月14日から起こったのか?

これに答えるのはかなり難しいように思う。

この問いは他にも変奏することができそうだ。

宝くじに当たる確率が1/1000000だとして、今回Bさんではなく他でもないAさんがあたったのはなぜか?あるいは、Bさんがはずれたのはなぜか?

コイントスをして、たったいま裏ではなくて表が出たのはなぜか?」などなどである。つまり、実際に起こった出来事一回一回の理由を問うような問いの立て方である。

例えば、1000回コイントスをして490回が表で510回が裏となったとき、全体像を見てなぜこのような結果になったのか?という問いへの答えは、「確率的に1/2だから」というのは答えである程度納得できるだろう。

しかし、それが起こってしまった後で振り返った時に「なぜ今回このような結果だったのか?」と問うと確率や偶然は答えとして不十分だ。繰り返すが、ではなぜ6の目が3回続けて出るのが今日からではなかったのか、なぜ宝くじにあたったのはBさんではなかったのか、なぜ今回コイントスで裏がでなかったのかには答えられないからだ。コイントスをした子どもから「なんでいま表が出たの?」と素朴に問われたらどう答えるか、と想像してほしい。

そこで、確率に従って起こるものごと一回一回が実際にどうなるのかを決める力、つまり、あくまで確率のルールに従って、その範囲内で、裏から物事をうごかすこっくりさんのような存在として運は存在し得るのではないか。

むしろ、運を持ち出す以外に私たちはそれを説明する言葉を持たないのではないだろうか。

この運の見方は、まるで確率という拘束具を身につけた上で、その範囲で自由に現実世界を描く絵筆を持った神のような存在を髣髴とさせる。

そうであればこそ、サイコロ人間が2022年6月14日から三日間6の目が出続けた理由は「サイコロ人間は2022年6月14日から三日間運が良かったからだ」と説明することができる。

 

ひとまず、駆け足ではあるが一つの今回の結論として、「運は、確率に支配されたルールにしたがって、特定の結果を生み出す力として存在する」としたい。

「事実とは何か?」の修正版 〜風に吹かれて〜

 最初に結論を書くと、今回の一連の作業を通じて僕は、真実は風のようだと思うようになった。なので副題も「風に吹かれて」にしてみた。

 

***

 

 前回のエッセイで僕は、事実とは何か?という問いに対する結論を以下のようなものにした。

 

事実とは、その正しさを多くの人が受け入れられるようなもので、かつ、その正しさを客観的に検証できるものである。

 

 それに対してエディターであるぎゃんたは、事実を以下のように再定義した。

 

事実とは、その正しさを客観的に検証できるか、その正しさを検証しようという努力の中にあるもので、少なくとも今の時点で暫定的にはその正しさを多くの人が受け入れているようなもの。

 

 この再定義に至る経緯は前回の記事(以下のリンク)

 

https://tony-gyanta.hatenablog.com/entry/2022/05/28/110325

 

で詳細に書かれているが、大まかには以下の2点が重要であると思われる。

 

① ある命題が事実であるかどうかは、時間によって変わり得る。

② ある命題が事実であるためには、必ずしも客観的な検証を必要としない。

 

まず、①については、例えば「日本の領土が変われば、富士山が日本一高い山ではなくなる」といったことが取り上げられている。

また、②については、裁判の例などが取り上げられ、その正しさが必ずしも客観的に厳密に検証できるとは限らないが、それを事実として認めないと裁判の判例を受け入れることは困難であるといったことが書かれている。さらに、主観的な事柄についても事実と捉えられるのではないかといったことも議論されている。これらの議論で重要なのは、おそらく、ある命題が事実になり得るかどうかはシチュエーションによる、ということであろう。極端な例で言えば、自分自身との問答において何を事実とするかは自分が好きなように決めても何の不具合も生じない。他にも裁判の場では裁判特有の尺度によって事実が定められ、科学の場においては科学特有の尺度によって事実が定められることになるだろう。つまり、命題の事実性は、すべてのシチュエーションに共通の単一の基準によって定められるものではなく、シチュエーションに応じた尺度によって測られる必要がありそうである。

 

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 これらのコメントについて更にエッセイストから批判を行っていくことも可能であるが、そうすると細々とした議論が展開されてしまうので、それよりも今回は、これらの批判を受け入れた上で、僕がエディターであるぎゃんたの文章を読んで事実に対するイメージがどのように変わったかを述べていきたいと思う。

 

まず、僕が初めにこのエッセイを書こうと思った時には、僕は漠然と真実を『白黒2色の箱に入れて判定できるようなもの』としてイメージしていた。例えば、「富士山は日本一高い山だ」という命題は真実の真っ白な箱に入れられ、「富士山は日本一高い山でない」という命題は嘘の真っ黒な箱に入れられている、といった感じである。

しかし、エッセイの構想を練っていくうちに、僕はこの考えを改めた。「富士山は日本一高い山だ」という命題は多くの人が正しいと思うだろうが、「自分で測らないと納得しない」という立場から、その正しさを批判できるからである。この時点で僕は、『命題を入れる箱は真っ白から真っ黒までのグラデーションになっていて、あらゆる命題はその箱のどこかに入っており、ある白さ以上の白さの箱に入れられた命題が真実である』といったイメージを持つようになった(あらゆる人がそれを正しいと信じる真っ白な箱と、逆にあらゆる人がそれを間違っていると信じる真っ黒な箱は理論的には存在はしているのだろうが、その箱の中に入る命題はおそらく一つも無いのだろう、などとも考えていた)。

 

 

更にエディターであるぎゃんたの文章を読むことで、このような白黒のグラデーションの箱は更に複雑な様相を呈しているようである、と考えるようになった。①のコメントを参考にすると、ある時に白っぽい箱に入れられていた命題は、時間が経つと、黒っぽい箱に入れられることがあるようである。

 

 

また、②のコメントを参考にすると、どの命題をどの色の箱に入れるかについてもシチュエーションに応じて複雑に決めていく必要がありそうである。

 

 

ここで僕はイメージを完全に変えた。それが、この記事の初めに書いた文章に繋がる。すなわち、事実は風のようである、と僕は思った。ここで言う風は、文学的な意味ではなく、天気図に書かれた矢印のような意味である。

風は、場所によって吹く方向も大きさも異なり、また少し時間が経てば、同じ場所でも風は異なる方向と大きさになる。例えば、ある日、千葉では西向きに強風が吹いていて、沖縄ではほぼ無風かもしれない。そして、次の日には、千葉では東向きに弱い風が吹いていて、沖縄では南向きに強い風が吹いているかもしれない。

命題の事実性も同じように考えられると僕は思った。このとき、風が吹く場所に対応するのが、それぞれの命題である。そして風の大きさに対応するのが、その命題の事実らしさ(例えばその命題を信じる人の多さ)である。さらに風には向きがあるが、それに対応するのが、その命題が語られるシチュエーション(自己問答、裁判、科学など)である。そして、ある大きさ以上の大きさで吹く強風に対応するものこそが事実を表している。

例えば、裁判で認められるような事実はある方向に向かって強く吹く風であり、科学で認められるような事実はまた別の方向に向かって強く吹く風である。もちろん裁判と科学の両方で正しさが認められるような事実もあるだろうが、そういったものは裁判の方向と科学の方向の中間に向かって強く吹く風と対応させることができる。

 

 

このイメージは、それぞれの命題がシチュエーションによってその正しさを変えることも、時間によってその正しさを変えることも表せているだろう。数学的に言うと、命題空間上の事実ベクトルを定義できるのではないか、ということである。

 

エッセイを書こうと思った時の白黒2色の箱のイメージと比べると、この一連の作業を通じて僕の事実に対するイメージは大きく変わった。それはこの実験の大きな成果であるだろう。また、このエッセイが、エディターであるぎゃんたにどのような感想を持たれるのかについても僕はかなり興味がある。ぎゃんたは、このエッセイに対するコメントをLINEなどを通じて僕に伝えてくるだろう。そして僕もまたそれに何かコメントを返すだろう。今のこのブログの仕組みではそのやりとりが公開されることはない(今後、このブログの仕組みを修正していくことになるかもしれないが)。つまり、僕とぎゃんたがそれぞれ、経験を重んじるエッセイストと知識を重んじるエディター演じてみた第1回目の実験の最終結果は、僕とぎゃんたの中でひっそりと仕舞われることになる。

 

***

 

では最後に、ここまでの議論を総括して、「事実とは何か?」という問いかけに対する答えを、風の比喩を用いない直接的な表現で、以下のように書き記しておく。

 

命題は、それが語られる場の大多数によって暫定的にその正しさが信じられている場合、少なくともその場においては暫定的に事実となる。