「事実とは何か?」の修正版 〜風に吹かれて〜

 最初に結論を書くと、今回の一連の作業を通じて僕は、真実は風のようだと思うようになった。なので副題も「風に吹かれて」にしてみた。

 

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 前回のエッセイで僕は、事実とは何か?という問いに対する結論を以下のようなものにした。

 

事実とは、その正しさを多くの人が受け入れられるようなもので、かつ、その正しさを客観的に検証できるものである。

 

 それに対してエディターであるぎゃんたは、事実を以下のように再定義した。

 

事実とは、その正しさを客観的に検証できるか、その正しさを検証しようという努力の中にあるもので、少なくとも今の時点で暫定的にはその正しさを多くの人が受け入れているようなもの。

 

 この再定義に至る経緯は前回の記事(以下のリンク)

 

https://tony-gyanta.hatenablog.com/entry/2022/05/28/110325

 

で詳細に書かれているが、大まかには以下の2点が重要であると思われる。

 

① ある命題が事実であるかどうかは、時間によって変わり得る。

② ある命題が事実であるためには、必ずしも客観的な検証を必要としない。

 

まず、①については、例えば「日本の領土が変われば、富士山が日本一高い山ではなくなる」といったことが取り上げられている。

また、②については、裁判の例などが取り上げられ、その正しさが必ずしも客観的に厳密に検証できるとは限らないが、それを事実として認めないと裁判の判例を受け入れることは困難であるといったことが書かれている。さらに、主観的な事柄についても事実と捉えられるのではないかといったことも議論されている。これらの議論で重要なのは、おそらく、ある命題が事実になり得るかどうかはシチュエーションによる、ということであろう。極端な例で言えば、自分自身との問答において何を事実とするかは自分が好きなように決めても何の不具合も生じない。他にも裁判の場では裁判特有の尺度によって事実が定められ、科学の場においては科学特有の尺度によって事実が定められることになるだろう。つまり、命題の事実性は、すべてのシチュエーションに共通の単一の基準によって定められるものではなく、シチュエーションに応じた尺度によって測られる必要がありそうである。

 

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 これらのコメントについて更にエッセイストから批判を行っていくことも可能であるが、そうすると細々とした議論が展開されてしまうので、それよりも今回は、これらの批判を受け入れた上で、僕がエディターであるぎゃんたの文章を読んで事実に対するイメージがどのように変わったかを述べていきたいと思う。

 

まず、僕が初めにこのエッセイを書こうと思った時には、僕は漠然と真実を『白黒2色の箱に入れて判定できるようなもの』としてイメージしていた。例えば、「富士山は日本一高い山だ」という命題は真実の真っ白な箱に入れられ、「富士山は日本一高い山でない」という命題は嘘の真っ黒な箱に入れられている、といった感じである。

しかし、エッセイの構想を練っていくうちに、僕はこの考えを改めた。「富士山は日本一高い山だ」という命題は多くの人が正しいと思うだろうが、「自分で測らないと納得しない」という立場から、その正しさを批判できるからである。この時点で僕は、『命題を入れる箱は真っ白から真っ黒までのグラデーションになっていて、あらゆる命題はその箱のどこかに入っており、ある白さ以上の白さの箱に入れられた命題が真実である』といったイメージを持つようになった(あらゆる人がそれを正しいと信じる真っ白な箱と、逆にあらゆる人がそれを間違っていると信じる真っ黒な箱は理論的には存在はしているのだろうが、その箱の中に入る命題はおそらく一つも無いのだろう、などとも考えていた)。

 

 

更にエディターであるぎゃんたの文章を読むことで、このような白黒のグラデーションの箱は更に複雑な様相を呈しているようである、と考えるようになった。①のコメントを参考にすると、ある時に白っぽい箱に入れられていた命題は、時間が経つと、黒っぽい箱に入れられることがあるようである。

 

 

また、②のコメントを参考にすると、どの命題をどの色の箱に入れるかについてもシチュエーションに応じて複雑に決めていく必要がありそうである。

 

 

ここで僕はイメージを完全に変えた。それが、この記事の初めに書いた文章に繋がる。すなわち、事実は風のようである、と僕は思った。ここで言う風は、文学的な意味ではなく、天気図に書かれた矢印のような意味である。

風は、場所によって吹く方向も大きさも異なり、また少し時間が経てば、同じ場所でも風は異なる方向と大きさになる。例えば、ある日、千葉では西向きに強風が吹いていて、沖縄ではほぼ無風かもしれない。そして、次の日には、千葉では東向きに弱い風が吹いていて、沖縄では南向きに強い風が吹いているかもしれない。

命題の事実性も同じように考えられると僕は思った。このとき、風が吹く場所に対応するのが、それぞれの命題である。そして風の大きさに対応するのが、その命題の事実らしさ(例えばその命題を信じる人の多さ)である。さらに風には向きがあるが、それに対応するのが、その命題が語られるシチュエーション(自己問答、裁判、科学など)である。そして、ある大きさ以上の大きさで吹く強風に対応するものこそが事実を表している。

例えば、裁判で認められるような事実はある方向に向かって強く吹く風であり、科学で認められるような事実はまた別の方向に向かって強く吹く風である。もちろん裁判と科学の両方で正しさが認められるような事実もあるだろうが、そういったものは裁判の方向と科学の方向の中間に向かって強く吹く風と対応させることができる。

 

 

このイメージは、それぞれの命題がシチュエーションによってその正しさを変えることも、時間によってその正しさを変えることも表せているだろう。数学的に言うと、命題空間上の事実ベクトルを定義できるのではないか、ということである。

 

エッセイを書こうと思った時の白黒2色の箱のイメージと比べると、この一連の作業を通じて僕の事実に対するイメージは大きく変わった。それはこの実験の大きな成果であるだろう。また、このエッセイが、エディターであるぎゃんたにどのような感想を持たれるのかについても僕はかなり興味がある。ぎゃんたは、このエッセイに対するコメントをLINEなどを通じて僕に伝えてくるだろう。そして僕もまたそれに何かコメントを返すだろう。今のこのブログの仕組みではそのやりとりが公開されることはない(今後、このブログの仕組みを修正していくことになるかもしれないが)。つまり、僕とぎゃんたがそれぞれ、経験を重んじるエッセイストと知識を重んじるエディター演じてみた第1回目の実験の最終結果は、僕とぎゃんたの中でひっそりと仕舞われることになる。

 

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では最後に、ここまでの議論を総括して、「事実とは何か?」という問いかけに対する答えを、風の比喩を用いない直接的な表現で、以下のように書き記しておく。

 

命題は、それが語られる場の大多数によって暫定的にその正しさが信じられている場合、少なくともその場においては暫定的に事実となる。