僕たちがやろうとしていること

 先日、僕は友人に尋ねた。
「富士山が日本一高い山だってどうやったら確かめられるんだろう?」
 友人は答えた。
「まずは高さの定義を決めて、それから・・・」

 僕の名前は『トニー』、友達の名前は『ぎゃんた』としておく。


これから僕たちは、一つの実験として様々な文章を書いていく。テーマは、身近なものから専門的なものまで幅広く取ろうと思っている。しかし、単に僕とぎゃんたが交互に文章を書いていくだけではつまらないので、僕たちは幾つかのルールを導入することに決めた。
まず、僕とぎゃんたは各回ごとに役割を入れ替える。初回は僕が『エッセイスト』の役割を担い、ぎゃんたが『エディター』の役割を担う。
エッセイストは何らかのテーマを選び、そのことについて文章を書いて投稿する。そしてエディターはその文章をチェックし(これについてはあとで詳しく話すが、ただのチェックではない)、そのチェックの内容を投稿する。そして、そのチェックを反映してエッセイストは文章を書き直し、それを再び投稿する。


そして、次の回では僕とぎゃんたは互いの役割を入れ替える。

このエッセイが最も普通ではないところは、エッセイストとエディターが、それぞれに特別なルールを守らなければならない点である。
エッセイストには文章を書くにあたって以下の2つのルールが課される。

1.  調べてはいけない。
2.  引用してはいけない。

1つ目のルールは、テーマを決めた段階から文章を書き終わるまでの間、そのテーマに関することをネットや本などで一切調べてはいけない、というものである。
2つ目のルールは、誰か著名な人の意見を引用することによって自分の意見の価値を高めようとしてはいけない、というものである。
すなわち、エッセイストは、自らがそれまでに蓄えた経験を総動員し、今調べて初めて知ったような中途半端な知識には頼らず、今の自分の知的状況をさらけ出し、自身の人間的魅力を反映した文章を創作するのである。
対するエディターは、エッセイストのエッセイに対してコメントを入れるのであるが、その際にはエッセイストとは反対のルールが課される。

1.    調べなければならない。
2.    引用しなければならない。

もちろん、エディターはそれぞれのトピックの博士になろうというのではないし、一人が調べられる内容には限りがあるので、「できるだけ」という譲歩はつく。しかし、エディターはエッセイストが書いたエッセイに対してコメントを入れるに際して、どんな手段を使って調べても良い。ググっても良いし、図書館に行っても良い。ウェブジャーナルで海外の学術論文を読んでも良ければ、はたまた詳しい人に電話をしてもいいし、渋谷で街頭インタビューをしてもいい(実際にどこまでやるかは分からないが)。とにかく、社会の知識を取り込むあらゆる手段が、エディターには許されている。
 どうしてこのブログにはこんなおかしなルールがあるのか。一つの理由は、いま僕たちの生きる世界はエッセイスト(のような人たち)とエディター(のような人たち)に大きく二分されていて、ある意味で水と油のようにうまくまじりあっていないように感じられる、というものである。
一方では、自身の経験に基づいて自由に自分の考えを表現する人たちがそこら中にたくさんいる(例えば、テレビのコメンテーターを想像しても良いかもしれないし、インスタグラマーやTikTokerなんかもそうかもしれない)。魅力的な人たちのこのような発信は多くの共感を生み出すが、その発信の正しさは保証されていない。また他方では、せっせと調べ物をして理論を組み立てて、トランプタワーを作るみたいに厳密で慎重に、科学的、学問的な知識を積み上げる人たちもいる(大学の教授なんかがそうだろう)。このような発信はある程度の正しさが保証されるが、場合によっては複雑すぎて理解することが困難であり、多くの人たちにその発信が届くことは滅多にない。みんなが(少なくとも自分自身にとって)より良い世界を目指していく中で、このような人たちが協力すればとてつもなく良いことが起こりそうなものであるが、現実はそうなっていないように思われる。すなわち、インフルエンサーのように「自由に自分の考えを表現する」柔軟な爆発力と、研究者のように「厳密に知を積み上げていく」歴史に磨かれた構築力が、この世界では全然違う舞台で上演されているように感じる。それをミニチュアサイズで一つの舞台に乗せる試みがこのブログだ。
このブログの舞台上では極端な二人の演者、つまり完全に自分の頭にしか頼ることのできない一方で、自由に自分の考えを表現できるエッセイストと、積み上げられてきた知にどこまでもアクセスがある一方で、その知から逃れられることのできないエディターがぶつかり合う。
エッセイストは「あの偉大な〇〇さんもこう言ってるんだから僕の意見は正しいはずだ」というような根拠付けへの欲望をかわしつつ、魅力的な持論を投げつけなくてはいけない。エディターは反対にエッセイストの自由で素敵な発想を鵜呑みにしたい欲望を打ち破って、情報の裏とりに駆けださなければならない。
二人がぶつかり合うとき、その結果がどのようなものになるかは僕たちにも予想がついていない。やっぱりあんまりうまくいかないのかもしれないし、そこそこなにか面白いことが起きるのかもしれない。
あまりブログ説明が長くなると大変なので、説明はこのくらいで切り上げることにして、実験を始めたい。

 

 

 ちなみに友人の答えはこうだった。
「まずは高さの定義を決めて、それから、何らかの科学的手法で日本中の山の高さを測って富士山が日本一高い山であることを確かめ、より高い山が存在しないか常にコメントを受け付けるようにする」
 それから少しのやりとりを経て、僕と友人はこのブログを始めることにした。