富士山は明日も日本一高い山か?――『事実とは何だろう?』へのツッコミ

 今回のテーマは『事実とは何だろう?』で、エッセイストのトニーが書いた記事について、エディター役のぎゃんたがさまざまな調べ物を駆使して検証、ツッコミを入れていきます。

全部引用すると長くなってしまうので、トニーのエッセイを短く引用しつつ、わかりやすいように、トニーの原文は赤ツッコミは黒文字で書きます。そして、カッコ内に調べ方についても書いておきます。

 

ブログの仕組みについてはこちら

https://tony-gyanta.hatenablog.com/entry/2022/05/21/185843

 

これからツッコミを入れていくトニーの元記事はこちら

https://tony-gyanta.hatenablog.com/entry/2022/05/22/141919

 

--------------------
素朴に考えると、事実とは正しそうなものであるように思われる。

(方法:家にある電子辞書をひく)

「事実」という言葉は一般的にどんな意味なのだろう。とりあえず広辞苑第六版をひいてみた。

1.事の真実。真実の事柄。本当にあった事柄。…」以下略

たしかに、事実という言葉の意味としては「真実」「本当にあった」、つまり「正しい」に近いところがあるみたいだ。

 

A: 富士山は日本一高い山である

(方法:インターネットでぐぐる

ここでいう高いというのはもちろん、格が高いとかではなくて標高のことを指していると思うけれど、そもそも標高って何だ?と調べているとレファレンス協同データベースに以下のページを見つけた。

crd.ndl.go.jp

ここには「高は、平均海面から測定した地表上の点または面までの垂直距離を指し、地形図等に表示する高さの基準である東京湾平均海面は、明治6~12(1873~79)年の6年間の観測結果によって定められたもので、日本水準原点の設置は明治24(1891)年5月である」と書いてある。

こう見てみると、標高というのも結構あいまいな部分があって、東京湾平均海面から測るというのはわりとぬるっと決まってきているようにみえる……。どこから測るかで標高も少しはブレがあるかもしれない。

ちなみに、富士山が日本一高い山だという公式な統計は国土地理院のこれで、たしかに富士山を超える山はここには載っていない。

www.gsi.go.jp

ただし、調べてみるとかつて日本が台湾を統治していたころは、台湾の最高峰「玉山」があったから、3952メートルのそちらのほうが最高峰だったという話もあり、いつの日本か、でも答えは実は異なることがわかる。

富士山より高い日本一の山があった? – クイズ専門情報サイト QUIZ BANG(クイズバン)

 

つまり、事実は、多くの人が正しいものと受け入れているものであるべきである(全ての人が正しいと受け入れる必要はない)。

(方法:地元の図書館で本を借りる)

ここでは、多くの人が認めることが事実の要素として挙げられている。しかし、多くの人が認めずに、少数の人しか信じていないにも関わらず、その後の時代に事実であると認められることもあるのではないだろうか。地元の図書館で借りてきた、中山茂『パラダイムでたどる科学の歴史』を読むと、天動説が主流だった世界にコペルニクスケプラーガリレオが少しずつ地動説を持ち込んでいったことが書いてある。もし、多くの人に受け入れられることを事実の中身として重んじるなら、「コペルニクス以前は天動説が事実で、以後は地動説が事実」ということになりそうだけれど、やや変に聞こえないだろうか?


つまり、事実は客観的に検証が可能なものであるべきである。

(方法:インターネット上のwikiセミナーの議事録)

つっこむべきポイントとしてはここが一番重要なポイントかもしれない。事実が客観的に検証できるものであるというのは、多くの人が頷けるように思う。しかし、客観的な検証はできないけれども、事実と呼べる、事実と呼ぶほかないようなものもあるんじゃないかと思う。二つ例を挙げ、一つのまとめをしたい。

ちょっとわかりにくい話になってしまうが、一つはだ。誤解のないように言うと、意識というほうがいいだろうか。

w.atwiki.jp

引用した上のwikiで「誰かが転んで「痛い」と言ったなら、その人には意識があるというのが第三者にもわかる。しかしその人が本当に痛さの感覚体験をしているかどうかは第三者には決してわからない。主観的にしか体験できないその痛さこそが現象的意識である。」とあるように、痛さを痛さそのものとして体験できるのは本人だけだ。

 

もちろん、他人が、医療機器で脳波を読み取ったり、「痛い」という言葉を聞いてそれを理解することはできるけれど、もともとの痛みそのものを痛みとして感覚、経験するのは本人だけだ。

この、本人にしかわからない「痛み」の感覚は事実ではないのだろうか。私自身にしかわからない、はっきりとそこにある痛みの感覚を「事実ではない」と言われるといささかムッとするのではないだろうか。

実際、心の哲学の専門家であるデイヴィット・チャーマーズは、このような本人にしかわからない感覚や意識について、

意識に関する事実は、物理的な事実を超えたさらなる事実である

https://w.atwiki.jp/p_mind/pages/74.html

と述べているようだ。これは、いまの科学では客観的に実証できない事実、と呼べるのではないだろうか。

 

また、もう一つの例は全く別の角度で、歴史的な事実についてである。

殺人事件の裁判の傍聴に行ったことがあるのだけれど、その裁判では被告人は完全に容疑を否認し、「私は殺してなんかいません」と主張した。

検察の主張、つまりこういう流れで被告人は被害者を殺した、証拠はこれだ、という話を聞くと、「なるほど、これは間違いなく被告は黒だろう」とおもうのだけれど、反対に、被告人の弁護士の話を聞くと、なるほど検察の証拠には疑わしいところがある、これは白かもしれない、と感じる。一緒に傍聴に行った友達とも、「これは、わからなくなってきたな」と話した記憶がある。

それでも最後には判決が下される。

仮に、これが死刑だったとしたら。何に基づいて被告は死刑に処されるのだろうか。被害者を殺したという事実に基づいて、死刑に処されるのだろう。「被告人が被害者を殺したのは事実ではないけれども、死刑に処する」とは普通ならないだろう。

この事実は、トニーのいうような客観的な検証に耐えうるような、事実ではないように思う。過去に起きた一回きりの出来事について、わからないなりに警察や検察や弁護人が証拠を固めて構築された事実なのではないだろうか。それはもしかすると、当の被告人にとっては全く納得のいかないものかもしれない。しかし、そうして構築された事実をもとに社会が動いている側面があるのではないだろうか。

事実が構築されるという側面について、こんなセミナーを見つけた。

<2016 年度先端社会研究所第6 回先端研セミナー(共催:社会調査協会)講演録>「ライフストーリーとライフヒストリー-『事実』の構築性と実在性をめぐって-」

このセミナーの中ではあまり重要なところではないと思うけれど、この中で、社会学者の岸政彦がこんな風に語っている。

オーラルヒストリーというのは、歴史的事件とか出来事についての話を聞くわけですよね。事実を聞くと。語りというものを通じて、であるにしても、それは事実を聞くわけですよね。もちろん、事実というのはその都度暫定的なものです。それは当たり前だと。

事実というのはその都度暫定的なものだ、というのはずっしりと響く。

確かに、富士山が日本一高いということもあくまで暫定的な事実だ。仮に来年、日本の領土がヒマラヤ山脈を含むようになったらそれは事実ではなくなる。天動説は、コペルニクスの登場まで、暫定的な事実だった、そして地動説もまた、暫定的な事実なのかもしれない。

こう考えると、まずトニーが提示した事実観に加えて、事実にはたぶん、「時間」の考えが入り込んでいるのではないだろうか。事実は常に現在のものとして語らねばならないのかもしれない。だからこそ、今「コペルニクスの前は天動説が事実だ」と言うと変に聞こえるけれど、仮に私がタイムマシンに乗ってコペルニクス以前の世界に行って「天動説は事実だ」と言ってもおかしくは聞こえないだろう。

 

セミナーでのまとめの中で岸はこのように語っている。

事実というのはその辺にあって、リンゴみたいになってて、木の枝からもいでくるみたいな感じで手にはいる、って思ってる人は多分いないと思うんですね。僕もそんなこと思ってないです。僕らは事実をつくってるわけですよね。ある種言語論的な実在論というか、つくられた事実があるんだということなんですよね。

事実には時間があることを上で見てきた。今度はこの引用からは、その時間の中でせっせと事実を作り上げているという、私たち人間の営みに視線が移る。再び裁判を思い起こせばわかりやすいと思う。不都合な事実を隠ぺいしたり、何もないところに嘘のなにかをつくったりしようということではなくて、ただひたすらに真実に近づこうという誠実な努力の中で、人々により事実は練り上げられ、認められていくのではないか。そこには、その事実を認めない人の異議申し立てもあるだろう。まさに裁判の控訴や、コペルニクスの地動説のように。

そういう、時間と運動の真っただ中にあるものとして、事実をとらえることもできるのではないだろうか。

やや駆け足ではあるが、一旦、トニーの提起をこのように言い換えてみたい。

事実とは、その正しさを客観的に検証できるか、その正しさを検証しようという努力の中にあるもので、少なくとも今の時点で暫定的にはその正しさを多くの人が受け入れているようなもの。

これが、私がエディターとして様々な知恵を引用しながら考えたトニーへの応答だ。

 

-----

今回調べる中で、あまり本筋ではないところでも一つツッコミがあったので、おまけとして掲載します。

おまけ

C: 日本において世界三大美女と言われているのは、クレオパトラ楊貴妃小野小町である。

(方法:国立国会図書館に行く)

これは全くあまり本筋ではないのだけれど、世界三大美女は意外と調べるのが難しい。以下のレファレンス協同データベースでも歯切れのよい回答はない。

crd.ndl.go.jp

唯一、単著としてこれについて論じていたのが永井久美子『「世界三大美人」言説の生成 : オリエンタルな美女たちへの願望 (Humanities Center booklet ; Vol. 6)』だった。わざわざ国会図書館の議会官庁資料室で原本を見たのだけれど、あとあと調べたら東京大学の機関リポジトリでPDFが見られることが分かった。

https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/records/54946#.Yo4qzajP25c

これには結構びっくりすることが書いてあって、「三人の人選はクレオパトラ楊貴妃小野小町である場合と、小野小町ではなくヘレネである場合とがあり、現代の日本では、どちらが圧倒的に多いということもなく、二つのパターンが混在している。」と。自分も正直、三大美女と言えばクレオパトラ楊貴妃小野小町でしょと思っていたのでそうではない説があると知って驚いた。世界三大美女の意味するところも、意外と固定的ではないのかもしれない。

第1回:事実とは何だろう?

 今回のテーマは『事実とは何だろう?』で、エッセイストはトニーです。

 このブログの仕組みについては、前の記事をご覧下さい。

 

https://tony-gyanta.hatenablog.com/entry/2022/05/21/185843

 

 まず、このテーマを思い付いて直ぐに考えたことは、何が事実で、何が事実でないか、その線引きは何なのか?ということである。素朴に考えると、事実とは正しそうなものであるように思われる。例えば、

 

A: 富士山は日本一高い山である

 

は事実のように感じる。一方で、

 

B: 富士山は日本一綺麗な山である

 

ということは事実であるか微妙である。確かに富士山が一番綺麗な山である論拠をいくつか列挙することは出来るかもしれない(例えば歴史に残るような絵画の中で富士山が最も多く描かれてきた山である、など)。けれど、それなりの論拠を持って富士山以外の山(例えば高尾山)の方が綺麗だと言う人のことを僕たちは容易に想定することが出来る。

 ここまで書いてみて2つの疑問が浮かんだ。

 まず1つ目は、富士山が日本一高い山であることはもちろん日本の公式な統計調査の結果ではあるだろうが、それを疑う人はいるだろう、ということである。「僕自身が全ての山の高さを測って比較した訳ではないのだから」というのはもっともらしい理由である。そうであるとすると、AとBの違いは曖昧になる。

 2つ目の疑問は、「富士山は日本一綺麗な山である」を「僕は富士山が日本一綺麗な山であると思っている」に置き換えれば、それを間違いだと言える人はあまりいないのではないか、ということである。しかし、これは個人の感想であって事実とは異なるもののように思われる。

  まず1つ目の疑問について解消するために、それぞれの主張を信じそうな人の数を比較してみると、富士山が日本一高い山でないと思う人もいるかもしれないが、その数は富士山が日本一綺麗な山でないと言う人に比べれば遥かに少ないと思われる。つまり、事実は、多くの人が正しいものと受け入れているものであるべきである(全ての人が正しいと受け入れる必要はない)。恐らくこの違いは、Aの文章で用いられている言葉の定義が多くの人にとって1つの意味に定まっているのに対して、Bの文章で用いられている「綺麗」と言う言葉が多義的であることが要因であろう。追加で以下の例を考えてみると、こちらは事実であると感じる。

 

C: 日本において世界三大美女と言われているのは、クレオパトラ楊貴妃小野小町である

 

美女と言う言葉は本来は多義的であるが、「世界三大美女」という一まとめの言葉は、日本にその範囲を限定すればその意味が一意に定まるからであろう。

 

 次に2つ目の疑問を解消するために、その主張を客観的に検証出来るかどうかという議論を行うことにしよう。富士山が日本一高い山であることは、日本中の人で手分けして日本中の山の高さを測り、その記録を映像で残すなどすれば検証することが出来るだろう。一方で、「僕は富士山が日本一綺麗な山であると思っている」ことは僕の主観的な情報として多くの人が正しいと受け入れるかもしれないが、それを客観的に検証することは困難であろう。つまり、事実は客観的に検証が可能なものであるべきである。

 文字数をあまり増やしたくないので限られた具体例しか載せられなかったが、僕が自身の経験に基づいて納得できる「事実の定義」は以下のようなものである。

 

「事実とは、その正しさを多くの人が受け入れられるようなもので、かつ、その正しさを客観的に検証できるものである」 

僕たちがやろうとしていること

 先日、僕は友人に尋ねた。
「富士山が日本一高い山だってどうやったら確かめられるんだろう?」
 友人は答えた。
「まずは高さの定義を決めて、それから・・・」

 僕の名前は『トニー』、友達の名前は『ぎゃんた』としておく。


これから僕たちは、一つの実験として様々な文章を書いていく。テーマは、身近なものから専門的なものまで幅広く取ろうと思っている。しかし、単に僕とぎゃんたが交互に文章を書いていくだけではつまらないので、僕たちは幾つかのルールを導入することに決めた。
まず、僕とぎゃんたは各回ごとに役割を入れ替える。初回は僕が『エッセイスト』の役割を担い、ぎゃんたが『エディター』の役割を担う。
エッセイストは何らかのテーマを選び、そのことについて文章を書いて投稿する。そしてエディターはその文章をチェックし(これについてはあとで詳しく話すが、ただのチェックではない)、そのチェックの内容を投稿する。そして、そのチェックを反映してエッセイストは文章を書き直し、それを再び投稿する。


そして、次の回では僕とぎゃんたは互いの役割を入れ替える。

このエッセイが最も普通ではないところは、エッセイストとエディターが、それぞれに特別なルールを守らなければならない点である。
エッセイストには文章を書くにあたって以下の2つのルールが課される。

1.  調べてはいけない。
2.  引用してはいけない。

1つ目のルールは、テーマを決めた段階から文章を書き終わるまでの間、そのテーマに関することをネットや本などで一切調べてはいけない、というものである。
2つ目のルールは、誰か著名な人の意見を引用することによって自分の意見の価値を高めようとしてはいけない、というものである。
すなわち、エッセイストは、自らがそれまでに蓄えた経験を総動員し、今調べて初めて知ったような中途半端な知識には頼らず、今の自分の知的状況をさらけ出し、自身の人間的魅力を反映した文章を創作するのである。
対するエディターは、エッセイストのエッセイに対してコメントを入れるのであるが、その際にはエッセイストとは反対のルールが課される。

1.    調べなければならない。
2.    引用しなければならない。

もちろん、エディターはそれぞれのトピックの博士になろうというのではないし、一人が調べられる内容には限りがあるので、「できるだけ」という譲歩はつく。しかし、エディターはエッセイストが書いたエッセイに対してコメントを入れるに際して、どんな手段を使って調べても良い。ググっても良いし、図書館に行っても良い。ウェブジャーナルで海外の学術論文を読んでも良ければ、はたまた詳しい人に電話をしてもいいし、渋谷で街頭インタビューをしてもいい(実際にどこまでやるかは分からないが)。とにかく、社会の知識を取り込むあらゆる手段が、エディターには許されている。
 どうしてこのブログにはこんなおかしなルールがあるのか。一つの理由は、いま僕たちの生きる世界はエッセイスト(のような人たち)とエディター(のような人たち)に大きく二分されていて、ある意味で水と油のようにうまくまじりあっていないように感じられる、というものである。
一方では、自身の経験に基づいて自由に自分の考えを表現する人たちがそこら中にたくさんいる(例えば、テレビのコメンテーターを想像しても良いかもしれないし、インスタグラマーやTikTokerなんかもそうかもしれない)。魅力的な人たちのこのような発信は多くの共感を生み出すが、その発信の正しさは保証されていない。また他方では、せっせと調べ物をして理論を組み立てて、トランプタワーを作るみたいに厳密で慎重に、科学的、学問的な知識を積み上げる人たちもいる(大学の教授なんかがそうだろう)。このような発信はある程度の正しさが保証されるが、場合によっては複雑すぎて理解することが困難であり、多くの人たちにその発信が届くことは滅多にない。みんなが(少なくとも自分自身にとって)より良い世界を目指していく中で、このような人たちが協力すればとてつもなく良いことが起こりそうなものであるが、現実はそうなっていないように思われる。すなわち、インフルエンサーのように「自由に自分の考えを表現する」柔軟な爆発力と、研究者のように「厳密に知を積み上げていく」歴史に磨かれた構築力が、この世界では全然違う舞台で上演されているように感じる。それをミニチュアサイズで一つの舞台に乗せる試みがこのブログだ。
このブログの舞台上では極端な二人の演者、つまり完全に自分の頭にしか頼ることのできない一方で、自由に自分の考えを表現できるエッセイストと、積み上げられてきた知にどこまでもアクセスがある一方で、その知から逃れられることのできないエディターがぶつかり合う。
エッセイストは「あの偉大な〇〇さんもこう言ってるんだから僕の意見は正しいはずだ」というような根拠付けへの欲望をかわしつつ、魅力的な持論を投げつけなくてはいけない。エディターは反対にエッセイストの自由で素敵な発想を鵜呑みにしたい欲望を打ち破って、情報の裏とりに駆けださなければならない。
二人がぶつかり合うとき、その結果がどのようなものになるかは僕たちにも予想がついていない。やっぱりあんまりうまくいかないのかもしれないし、そこそこなにか面白いことが起きるのかもしれない。
あまりブログ説明が長くなると大変なので、説明はこのくらいで切り上げることにして、実験を始めたい。

 

 

 ちなみに友人の答えはこうだった。
「まずは高さの定義を決めて、それから、何らかの科学的手法で日本中の山の高さを測って富士山が日本一高い山であることを確かめ、より高い山が存在しないか常にコメントを受け付けるようにする」
 それから少しのやりとりを経て、僕と友人はこのブログを始めることにした。